まず、演奏行動をおこなう人々が増加したことについて。
複製技術の普及以降、人々が音楽を一方的に聴取する機会が増加した。それまで音楽にあまり接する機会がなかった人々にまで音楽聴取体験が一般化したことは、複製技術の功績ではあるが、演奏者と聴取者との役割がはっきりと二分されてしまった。
複製技術が誕生するまで、人々は、音楽を聴取するためには、音楽が演奏する時刻にその場所に居合わせなければならなかった。このことは、聴取機会を限定することではあったが、そこでの音楽はかならず、聴取者と演奏者とが双方向的なコミュニケーションのもとに成立していた。
宴会などのコミュニティーにおいては、演奏技術を比較的必要としない音楽が一般の人によって演奏され、あるいは複数の人々、あるいはその場にいる全員で演奏することもあるなど、演奏者と聴取者とは完全に分離していなかった。聴取者は、みずからの内面で音楽を楽しみ、また演奏者に対して拍手や手拍子などのアクチュアルな行動を示す。演奏者も、見知りあいである聴取者をつねに意識しながら演奏する。その結果、聴取者の存在は、その場を成立させる重要な役割を担っていた。
ところが、舞台やマスコミュニケーションにおいて演奏される楽曲は、演奏に特殊な技能を要したり、職業的な演奏家によって演奏されるものがほとんどであり、人々にとってそうした音楽は、一方的に聴取するだけのものであった。人々が演奏する機会はごく限られており、その演奏も周知の演奏と比較して不完全であるといわざるをえないものであった。人々は、口ずさむ程度の演奏行動はおこなっても、聴取者に聴かせるために演奏することはなかった。「かくし芸大会」といった特別な場合においてのみ演奏する機会があたえられていた。
こうした演奏者と聴取者との分離は、マスコミュニケーションの普及によって、ますます進行した。同じ場に居合わせない両者は、音や映像の情報という情報の一方的な流れによってのみ結ばれている。聴取者は、どのような状況で、どのような態度で聴取していようとも、そのことを問われることはない。複製技術による音楽の再生では、聴取者の存在や行動が演奏者に直接影響することはない。しかも、レコードや放送によって、聴取者は、レコードという商品を購入し、ジュークボックスにコインを投入するという行動によって、あたかも商品を消費するように演奏を聴取するようになる。
ところがカラオケの普及によって、基本的には聴取の側にいた人々が、演奏する側に回った。職業的な演奏による伴奏にあわせて歌えば、その歌声は、伴奏とミキシングされた音として聴くことができる。この際、歌唱者の演奏技術はさほど問題とはならない。聴取者と歌唱者とが、容易に交代可能な状況になった点においては、カラオケ以前のコミュニティーにおける音楽と同様である。ただし、演奏される楽曲が、マスコミュニケーションとして流通しているものに限定されている点において、状況がもとに戻ったとはいえない。
これまで、人前で歌うことを嫌い、あるいは限定された仲間どうしではおおいに歌っていた人々が、カラオケという機械さえあれば、あらゆるシチュエーションにおいて、人前で歌うことをはばからなくなったことは、大衆音楽史を語る上では見のがすことのできない重要な変化である。つまり、大衆レベルの人々の根本的な、あるいは集団としての音楽的な感性が変化しているのである。
次に、あらかじめ録音された演奏にあわせたカラオケの歌唱行動について。
あらかじめ録音された伴奏に合わせて歌うというカラオケによる演奏は、複製技術を存在の前提としている。演奏者にとって、自分の演奏に合わせようとはしない伴奏に合わせて演奏するという体験は、複製技術によるまでは、ありえなかった。
音楽の演奏において、演奏者が複数存在する場合には、演奏者相互に意志を疎通させる必要があった。ある楽曲を演奏する場合、それぞれの演奏者は、あらかじめ与えられている役割にしたがっているだけではなく、演奏全体の進行をつねに予期している。他の演奏者の演奏を聴取しながら演奏しなければ、楽曲は統一された演奏として進行しない。
ところが、カラオケにおいては、伴奏部分の演奏は、あらかじめ録音されたものであり、カラオケ自体が歌唱者の行動にあわせることはありえない。歌唱者は、一方的に伴奏にあわせるなければならない。生の演奏においては演奏の中心的な役割を担っていた歌唱者が、カラオケにおいては、従属的な役割を担わされている。
カラオケといった装置を音楽学の研究対象とすることは、これまで、あまりなされていない。また、さまざまな状況で利用されるカラオケを、ひとくくりにして考察することに問題がないわけではない。しかし、ここまでの考察においても、カラオケという装置そのものがもつ人々への影響力は、大きなものであるといわざるをえない。音楽体験がどうのようなメディアによっておこなわれるかという問題は、その音楽体験そのものにとって、決して小さなものではない。カラオケは、その誕生以前には存在しなかった形態の演奏行動と、より積極的に場を形成する聴取行動とを人々に要求するようになったのである。ここには、ある新しいテクノロジーそのものがもたらした新しい環境の問題が、そのテクノロジーの社会における役割の問題の上に、重層的に存在している。
ポピュラー音楽の学術的な研究において、カラオケがとりあげられることは、これまでほとんどなかった(例外として佐藤ほか 1979 など)。盛り場の風俗としてマスコミではしばしば話題にされ、外国においても閉鎖的な日本人サラリーマン社会を象徴する事例としてとりあげられる程度であった。また、外国の研究者が日本社会を分析する手法として、カラオケを取り上げる例がある(Kelly 1991,Macow 1991)。学際的な研究を標榜するポピュラー音楽学会では、1990年から、例会や全国大会において、カラオケそのものをテーマとするシンポジウムなどをくりかえしてきた(3)。この論文では、そうした研究成果をふまえながら、これまであまりとりあげられなかったカラオケの音楽体験のありかたを歌唱者を中心に考察する。
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A Study of KARAOKE [1]
upload by MAKITA Van at 21 Jan. 1996
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