Musical experience という用語は、日本語では、音楽の体験あるいは音楽の美的経験など複数の訳語があてられており、その内容もさほど定着しているわけではない。従来、この用語は、聴取者に対して用いられることが多かった。しかし当然のことであるが、音楽は、聴取者のみならず、演奏者自身に対しても、なんらかの感動 emotion を与える。この論文では、音楽に関与することによって得られるこの体験一般を「音楽体験」と記述することにする。
この音楽体験のありかたを通して、カラオケのそれ以外の音楽形態には存在しないありかたを考察する手がかりとする。この第2章では、その予備的な考察をおこなう。
2.1.2. 演奏者の音楽体験
演奏者の演奏行動は、演奏の成立を目的としている。いかなる楽曲であろうとも、その演奏が成立させるために、演奏者は、その楽曲の進行に対して、なんらかの予期をしながら演奏している。演奏者の演奏行動は、その予期を実現させるようにおこなわれる。もちろん、演奏者は、自分の演奏を聴き、その結果を自分の演奏行動に反映させる。音楽の演奏行動とは、すでに存在しているものを提示する機械的な作業ではなく、時間の流れの中において、一瞬一瞬におこなわれるものである。逆に、演奏が刻々とたちあらわれることによって、時間の流れがつくり出されるともいえる。
演奏者が複数である場合には、なおさら、このフィードバック作業の重要性は増す。刻々と演奏される楽曲全体を聴きとり、次の瞬間に自分がなすべきことを予期しなければならない。そこでは、(楽譜では表記できないレベルでの)テンポや音色などの変化があり、それらを演奏者どうしが、聴きあって調節している。「呼吸をあわせる」とは、演奏者どうしで双方向的なコミュニケーションをおこなっていると考えてもよい(4)。ところが、この際、演奏者は、自分のパートを独自に演奏していると意識し、同時に、演奏全体が自分の主体的な行動の結果であるように感じることがある。あるいは、あたかも間主体的に自己が認識されているともいえる(5)。
2.1.3. 聴取者の音楽体験
では、聴取者にとって、音楽における時間の推移とは、どのように意識されているのであろうか。
生演奏、つまり、目の前で演奏者が演奏している音楽の聴取体験において、聴取する行動は受動的であるが、聴取者の意識は、聴覚器官による情報の受容のみにとどまらない。聴取者は、演奏者と同様に、演奏の進行に対して、なんらかの予期をしている。こうした予期は、すでに知っている楽曲であれば細部にわたって可能であるし、はじめて聴く楽曲であろうとも、あるいは即興的な演奏であろうとも、楽曲の進行に規範性が認められる限り、予期は可能である。したがって、演奏者と聴取者との両者は、次の瞬間の演奏の予期と、演奏の結果の認知を繰り返している点で共通している。
身体行動をともなわない聴取者は、具体的な行動をおこなわず、演奏者に音楽的に影響することはない。しかし、コンサートホールの客席にいる聴取者は、演奏者と向き合い、その場所で、その時にたちあらわれる音に対して反応し、かけ声をかけ、拍手をする。そうした聴衆の「熱気」によって演奏者が気分を高揚させることもある。また、こうした状態でなくとも、聴取者は、存在しているだけで、演奏者に大きな影響を与えている。生演奏がおこなわれる場において、演奏者と聴取者とのあいだには、双方向的なコミュニケーションが成立しているといえる。そして、聴取者がみずから演奏に参加しているように感じることができる。2.1.2.での考察を進めると、こうした感情は、主体的な聴取、つまり、自分が予期した演奏が実現したように感じることによって起こると考えられる。
2.1.4. 第3者的な存在
楽曲が楽譜などによって規定されており、音楽を成立させるための法則によって、その進行に一定の必然性をともなっていることは、疑うべくもない。演奏者は、聴取者の存在を意識すると同時に、みずからも演奏を聴取している。コミュニケーションとしての演奏行動の対象は聴取者ではあるが、その聴取者とは、具体的な特定の人物ではなく、より抽象的な存在としての聴取者である。練習の際や一人でカラオケで歌う際など、そこに聴取者が存在しなくても、それが演奏者におよんでいるかのように演奏者が演奏できるのは、楽曲それ自体がある種の規範を持っているからである。
しかし、この規範は、絶対的なものとして作用するのではなく、演奏者それぞれの、その楽曲に対する主体的な認識によって、その音楽の流れを形成するために必然的であるとみなされている規則にすぎない。そうした規範は、演奏者のみならず、聴取者にも作用している。そこで、規範を与える存在として、演奏者でも聴取者でもない「第三者」的存在としての聴取者を想定することができる。演奏者にとって聴取者の存在は、具体的に対面する期待者であると同時に、「第三者」的な抽象的な期待者としても認知される。また、演奏者は、みずからの内にも「第三者」的な聴取者の存在を宿しているともいえる。
音を録音し再生するという複製技術は、音楽にしか利用できないものではない。レコードの発明者であるエジソンは、速記者や教師の手助けをする声の記録としてのレコードのの役割を重要視し、音楽の録音に対しては、軽蔑さえしていたという(細川 1990:37-39)。ところが、音の複製技術は、普及され現在にいたるまで、音楽の録音の利用が圧倒的多数を占めている。もちろん、マスメディアにおいて、日常的な音を複製する必要はほとんどないが、カセットテープなどの個人的な利用にいたるまで、そのほとんどがレコードや放送からの複製である。写真においては、自分の過去の姿や日常的ななにげないしぐさまでも記録されることに対してあまり抵抗がない人々が、こと音に限っては、ほとんど自分自身の記録を残そうとしない。おそらく、音、つまり聴覚情報は、日常的にはあまり意識されておらず、記録し再生するに価しないと考えられているからであろう(6)。
生演奏ではなく、複製技術による再生の聴取であっても、初めて再生する録音であれば、あたかもそこで演奏しているかのようにその演奏を予期しながら聴取することができる。もし、その録音が生演奏そのままではなく、編集されたものであっても演奏の予期は同様に可能であろう。そこでの演奏者と聴取者とのコミュニケーションは、2.1.で考察したような双方向ではなく、演奏者からの片方向でしか成立していないが、そのことは、聴取行動の本質的なさまたげにはならない。テクノロジーの発達によって、そもそもオリジナルの演奏が存在しえない録音もある今日、オリジナルとコピーとの区別を問うことない新しい音楽体験が成立している。
生演奏よりも、レコードやラジオなどによる音楽体験が増えた今日、聴取者は、さまざまな環境において、繰り返し同一の録音の再生を享受することになる。楽曲の同一性は、反復して演奏されることによって確立してゆく。しかし、完全なる再現として表彰する録音の再生は、その特定した演奏そのものに対して同一性が生じ、それ以外の演奏を拒絶するように働くこともある。そこでは、演奏をとおして作品あるいは作者を意識されずに、レコードとして定着してしまっているその演奏をひとつの「作品」として意識する傾向が生まれる(7)。
演奏するという行動には、自分の気持ちを伝達するという目的以外に、自分以外の人間との関係の中で、ひとつの音の世界としての音楽を構築するという喜びがある。ほかの人の歌や伴奏に合わせるということは、音楽の成立には不可欠な行為であるが、その行為の主体である歌唱者や伴奏者は、それぞれが主体的に行動した結果として演奏全体が成立しているように感じている。あるいは、演奏者全体が、一つの意識体として行動しており、それぞれの演奏者は、そこに帰属しているという意識を持つことがある。こうした心理的な関係が、理想的な合奏の場において成立している(木村 1988:31)。
音楽人類学の研究成果を持ち出すまでもなく、音楽に人々の気持ちをひとつにする作用があることは明白である(8)。例外的には独奏形態もなくはないが、基本的には、複数の演奏者がある時間の流れの中で音をそれぞれに発することによって音楽は構築される。そして、独奏の場合でもあてはまることであるが、それを聴取する人間の存在を前提としていることはいうまでもない。音楽は、そうした人間関係を前提に存在していた。歌唱行動によって音楽は、一度みずからの内面にはいりこみ、同じものによって感情を起伏させている他者との関係を成立させている(9)。
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A Study of KARAOKE [2]
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