人々は、日常ではみられない特定の行動様式をとることによって、カラオケの「場をもりあげる」。「マイクを持つと人が変わる」という言葉は、歌唱者の行動が日常とは異なっていることを表している。また、聴取者も、カラオケの場においては、前奏や間奏、後奏においてさかんに拍手をし、歌っているあいだも手拍子をたやさない(あるいは、曲によって手拍子をあえておこなわない)などというように、ある一定の行動様式をもっている。楽曲や歌唱者に明確に対応した行動が、カラオケの場の「マナー」として聴取者に求められる。
ここでは、便宜的に歌唱者と聴取者をわけて考察を進めるが、カラオケの場においては、この両者は、明確に分担をわけているのではなく、つねに交代可能な関係であり、両者を含んだその場の人間関係を構成する人々全員が、カラオケという音楽体験を、それぞれ役を変えながら演じているともいえる。人々は、こうした規範をカラオケの存在する場の雰囲気から感じとる。あるいは、カラオケの存在そのものがこうした規範を人々に要求しているといえる。しかし、この規範とは、カラオケを利用する目的を達成するために、その場の構成者が、自分たちに対して期待している行動の形式である。こうしたカラオケにおける役割規範は、2.1.で考察した音楽一般における役割規範が、カラオケという場に限った特殊なものとして、たちあらわれていると考えられる。しかし、こうしたある種の社会的な期待は、その構成員のカラオケに対する社会的な位置づけに左右されるので、構成員が異なれば違うものにならざるをえない。特に、外国でのカラオケの利用のされかたは、筆者が経験・調査している日本におけるカラオケ一般の利用のされかたとずいぶんと異なっている(10)。ここでは、海外での利用状況との比較考察はおこなわない。
カラオケによる歌唱者の歌唱行動のカラオケのない場所ではみられない特徴として、次の5点をあげることができる。
1)あらかじめ録音されている伴奏部分に合わせて歌う
2)ハンドマイクをもつ
3)コインを投入する
4)用意された曲から自分の歌う曲を選ぶ
5)歌詞が提示される
この3章2節では、この5点それぞれに対して項をもうけて、順に考察する。カラオケはさまざまな場で利用されており、この5点がすべてのケースで該当するわけではないが、これらの要素が、カラオケにおける役割行動をささえていることにはかわりがない。
3.2.2. 再生される伴奏
あらかじめ録音されている伴奏部分の再生にあわせて歌を歌うというカラオケの場合、伴奏であるカラオケは、歌にテンポ・音程をけっして合わせてくれない。こうした歌唱行動は、これまでに例を見ない特異的な形態であるにもかかわらず、この問題についてあまり言及されることはない。おそらく、この点に関する「あきらめ」は、カラオケにとっては自明のことであり、そこにカラオケの欠陥があると考える人にとっては、指摘してほしくない特徴であるからであろう。しかし、逆に、カラオケをそういうものであると認識してしまえば、この点は、欠陥ではなくなる。
録音された伴奏に合わせて演奏することは、なかったわけではない。SPの時代から存在していた「ミュージック・マイナス・ワン」と呼ばれるレコードは、西洋クラシック音楽の協奏曲などにおいて、独奏楽器のパートのみを排除した演奏が録音されているもので、一種のカラオケであるといえる。しかし、「ミュージック・マイナス・ワン」は、あくまでも独奏者の練習用のものであって、それに合わせた演奏を聴取者に聴かせることは目的とされていなかった。そのため、協奏曲のカデンツの部分では、メトロノームのような音によってテンポが提示され、練習者の便宜をはかっている。
1949年頃から録音スタジオで使われ始めた磁気テープは、レコードの録音において、その「編集」を可能にした(Gelatt 1977:247)。レコードの制作において、特にポピュラー音楽においては、「カラオケ」と呼ばれる歌のパート以外の録音をまず制作し、それを聞きながら歌われた声部を最後に重ね合わせる方法が早くから一般的になっていた。この業界用語が今日世界中で普及しているカラオケという言葉の語源になる(11)。字義通りに説明すれば、「歌のパートがからっぽのオーケストラ」であり、異質な言葉の省略型を複合しているところが、日本語による俗語らしい(12)。
カラオケがスタジオ以外でも使われるようになったのは、歌手が各地のステージで歌う際に、そうしたカラオケを持参して使うようになってからである(13)。それまでは、職業歌手が各地で演奏する場合、伴奏楽団を同行させて伴奏させるか、あるいは、伴奏の楽譜を持参し、各地のバンドの伴奏してもらっていた。楽団が変われば、楽譜を規範としているとはいえ、その伴奏は、それぞれのバンドの楽器編成や演奏技術によって演奏は変わってくる。しかしカラオケが導入されることによって、楽曲の自己同一性は、歌のパートのみならず、その伴奏をも含めた演奏全体に対してあたえられるようになった。歌手は、つねに同じ伴奏に合わせて歌えるようになった。伴奏が録音の再生に替えられても、聴取者にとっては、生演奏となんらかわりがない。特に、テレビ番組においては、歌唱者が画面上で、つまり生で歌っていることが重要なのであって、その伴奏がカラオケであってもほとんど問題にされない(14)。レコードや、レコードの再生を放送することの多いラジオを含めて、マスメディアにおいては、音楽のほとんどは録音段階で編集されていることが自明のことになった。
カラオケの今日の流行は、こうしたマスメディアにおける傾向が、一般の人々の日常的な音楽体験にまで浸透してきたものであるといえる。しかし、カラオケでは、人々は、みずから歌唱行動をおこなうことによって、その双方向的なコミュニケーションの不在を認識せざるをえない。しかも演奏全体の中心的なパートであった歌が、これまでとは逆に、伴奏にあわせなければならなくなったのである(15)。また、カラオケの流行によって、人々のあいだに、音楽の演奏とは、複数の演奏者が気持ちをそろえて合奏しなくても、多重録音による編集で成立するものであるという認識が(意識されていないにせよ)広まっている。ここに、音楽が演奏者から「疎外」されている傾向を見いだすことができる。逆にいえば、人間の側が、音楽から疎外されているのかもしれない。そして、カラオケによって人々は、そのことを、聴取者の立場ではなく、演奏者の立場で認識することになったのである。
3.2.3. マイクを持つ
カラオケを歌うほとんどの場合、マイクを手に持って歌うようになっている。原理的には、スタンドにつけたマイクに向かって歌っても変わりはないのであるが、スタンドを用意しているところはほとんどない。ステージなどにおいては、歌唱者は、客席の聴衆に対して歌を歌いかけ、声をひろい、電気的に増幅するマイクは、位置的にもそのあいだに存在する。この場合、歌唱者と聴衆の関係はマイクが存在する以前からに対して変化はない。ところが、それを、テレビをとおして聴いたり、録音されたものをあとで別の場所で聴く体験ではどうだろうか。あるいは、目の前には聴衆がいない場所において、録音されたものや遠隔地での聴取を想定しての歌唱行動ではどうだろうか。
歌唱者は、目に見えない聴取者をマイクの向こうに存在していると感じているのではないか。ところが、存在しない聴取者としてマイクが機能している以上、その「反応しない」聴取者であるマイクの存在は、歌唱者にとって、あまり気持ちのよいものではない。とくに、スタンドにつけられたマイクは、反応のなさを強調している(16)。ところが、手持ちのマイクは、自分の思いのままに動かすことができる。目に見えない聴取者を象徴していたマイクが、自分の身体の一部となるのである。自分が歌う対象が、手の内にあることになる。これは、歌唱者と聴衆の関係としては、マイク以前にくらべて大きな変化であろう(17)。
マイクをもつ行為は、歌唱者が電気的な変換装置の存在をはっきりと認知していることも意味する。自分の歌唱行動が電気的な装置によってささえられていることを、マイクをもつ歌唱者は認めざるをえない。マイクによってひろわれた声は、伴奏と対峙することなくミキシングされて、スピーカーから流れる。歌唱と伴奏との緊張関係は成立しない。しかも、声は、電気的に(エコーなど)加工されているのである。
また、マイクを持つ行為は、モデルであるプロの歌唱者の模倣であるとも考えられるが、模倣の問題は、4.1.で言及する。
マイクを持つ行為には、上述した3点の意義が認められる。マイクを持たなければ、歌唱者は、歌唱者ではありえない。逆にいえば、マイクさえ持てば、どんな人でも歌唱者になれるのである。
3.2.4. コインの投入
カラオケは、装置としてジュークボックスに類似しており、その誕生の経歴をみても、ジュークボックスをモデルとしているのは事実である。たくさんの曲を用意し、すぐにその曲の最初から再生し始める点においては、カラオケはジュークボックスとまったく同じである。このジュークボックスとの機構的な類似の点で興味深いのは、コインを入れることによって再生が始まる点が、カラオケにおいてもいまだに踏襲されていることである。現在の科学技術ならば、使用された曲の数や使われた時間を一括して管理することは、そうむづかしいことではない。実際に、一元管理の結果として、使われた曲の統計が作成されており、カラオケの管理者に提示される一方、カラオケを制作しているメーカーが、準備する曲目の構成を考える際などに利用されている。しかし、ボックス型やルーム型のカラオケの多くの場合、伴奏を再生するためには、歌唱者(あるいはその場に居合わせただれか)がお金(コイン)を投入しなければならない。もちろん、多くの場合、厳密に再生の直前に歌唱者がコインを投入しているわけではない。その場の人々が共同で出資しているコインがあらかじめ機械に何枚か投入されており、その数が一つづつ減少するようになっていることが多い。また、プリペイドカードの利用できる機械もある、しかし、一曲のカラオケの利用料金が利用者に明確に提示されることにはかわりない。
ジュークボックスの場合と同様に、カラオケによる歌唱者は、1曲に対して代価を支払うことによって、その楽曲を「消費」していることを確認している。ジュークボックスの場合、投資者は、楽曲の選択権が与えられるのみで、その楽曲を聴取し享受するのは、その場の人々全員であった。カラオケでは、投資者は、選択権とともに、歌唱する権利も与えられている。しかし、カラオケの場における聴取者は、歌唱者の歌唱を聴いているのと同時に、歌唱とは関係なくカラオケの伴奏を聴いている。カラオケは、もとの楽曲のイメージを再現している聴取者にとっても、ジュークボックスの代替である。
3.2.5. 選択するという欲求と、その疑似的な充足
自分が歌いたい曲を歌うことは、歌を歌う際には重要な欲求充足目的のひとつである。「どういった曲を歌うか」という選択は、歌唱者にとって、自己主張の重要な要素である。ポピュラー音楽の聴取行動では、自分のお気に入りの曲・歌手(グループ)・ジャンルは、ほぼ固定され、そのことを主張することによって、自分を紹介すると同時に、同様の興味関心をもつ仲間を求める。自己紹介をする際に、自分の好きな音楽を紹介することが多いことが、この「選択による自己主張」というパターンの一般性を裏づけている。あたかも、カタログから服を選ぶような感覚で、聴かれる音楽が選択されている。カラオケの場における自分の歌う曲の選択とは、こうしたポピュラー音楽における選択とまったく同一の行為である。
ある楽曲を歌うことができるということは、その人は、歌えるほどにその曲に対する関心の深さを、如実の物語っている情報であるともいえる。この情報は、言説によるその曲に対する興味関心の表明よりも、信憑性が高い。そして、この歌う曲の選びかたによる自己の表明は、その曲やそのジャンルに対する興味関心の言葉による表明を越えて、その人自身の意識・ライフスタイルを如実に反映している。(演歌しか歌えない人、あるいは、特定の軍歌を歌う人、若い人に流行している曲を意外に知っている中年男性、自分の学生時代の流行歌しか歌わない人など、さまざまな事例を思い浮かべてほしい。)
ところが、聴く曲と歌う曲とが、必ずしも一致しているわけではない。演歌は好んで聴かないという若者であっても、カラオケでならば演歌を歌うことがあるという(18)。こうした傾向は、単にカラオケによる歌唱行動のみならず、人々の聴取する楽曲の好みにも大きく影響している。つまり、カラオケが人々の音楽の楽しみの幅を広げたともいえる(19)。
カラオケでは、この欲求は、一般的な曲を数多く用意することによって、疑似的に満たされる。しかし、歌唱者は、すでに選ばれて用意された曲しか歌うことができない。自己表現の重要な要素である曲の選択が、すでに恣意的に選択された枠に限定されている。校歌などといった限定された対象によく知られた曲がカラオケに用意されていることは少なく、当然のことながら、自分で作った曲や、即興的にその場で作ってしまった曲は、カラオケでは歌うことができない。また、人々にとって音楽の楽しみの大きな要素であった歌詞を替えて歌う「替歌」は、カラオケではほとんど見られない。特に、テレビモニターによって全員に歌詞が提示されている状況において、それを無視して別の歌詞で歌われることはほとんどない、替歌は、歌詞をすり替え、その差異とともに、マスメディアにはのらない人々に近接した意味内容を楽しむものであった(20)。
人々は、カラオケにおいて、予定された行動をとる限りにおいてのみ、自由でありえる。しかし、人々は、カラオケが持っている「枠」の限定を自明のこととしてあまり意識することなく、自由に音楽を楽しんでいると思っている。しかし、それは錯覚でしかない(21)。
3.2.6. 歌詞の提示
カラオケの歴史を見ると、歌詞をどのように提示するかという問題が重要であったことがわかる。たくさんの曲の中からすばやく探し出さなければならないことと、曲が徐々に入れ換えられるという問題を解決しなければならなかった。また、お酒が飲まれる場所で酷使されることも、考慮にいれなければならなかった(22)。しかし、現在普及しているテレビモニターによる表示によって、こうした問題はほぼ解決された。このようにさまざまな困難があるにも関わらず、歌唱者はどうして歌詞を見ながらでないと歌わないのであろうか。
ポピュラー音楽の場合、その演奏の中心的な存在である歌唱者が歌詞を見ながら歌うことは少ない。楽譜を見ながら演奏することが比較的多いクラシック音楽でも、今日では独奏者は暗譜で演奏するのが常識である。演奏をリードしていくべき中心的存在である演奏者は、楽譜、あるいは歌詞を見なくても憶えていて、つまり作品を身につけていることが当然のこととして期待されている。事実、カラオケの歌唱のモデルであろうマスメディアにおけるプロの歌唱者の歌唱行動では、楽譜や歌詞を見ないのが一般的である(23)。
ところが、カラオケでは歌唱者は、歌詞に視線を集中させていることが多い。このことは、歌詞の提示方法が歌詞カードであっても、テレビモニターであってもかわりない。あたかも、きちんと歌詞を見ながらでないと、歌が歌えないかのような行為である。もちろん、歌詞を見ないよりは、見ているほうが、歌詞をまちがう危険性は少なくなる。しかし、歌詞をまちがえないようにすることだけが、歌詞を見つめて歌う理由なのであろうか。
演奏者にとって、目線をどこに合わせるかという問題は、心理的に大きな問題である。観客に対して横を向いて演奏するピアニストや、観客に背中をむけてしまう指揮者の意識は、観客に相対して演奏する歌唱者や弦楽器の独奏者などとは明らかに異なるであろう。観客に向かって話しかけるように「歌いかける」歌唱者は、その相手である聴取者を強く意識している。しかし、しろうとであるカラオケの歌唱者は、聴取者を意識しながら人前で歌うことになれていない。また、目線を歌詞に固定しておけば、たとえ聴取者が歌唱者を見ていたとしても、それをあまり意識することなく歌うことができる。歌詞の提示は、歌唱者と聴取者の視覚的な関係を回避する機能をもっていると考えられる。
ところが、その結果として、あたかも、その曲の歌詞を一字一句まちがえないことが歌唱者の義務であるかのように行為することになる。あらかじめ決められた曲の構成が、絶対的なものとして作用する。伴奏のない場においては、1番だけで歌をやめたり、もりあがるメロディーを繰り返したりすることが多いのに対して、カラオケでは、レコードで歌われたとおりに最後まで歌うことが多い(24)。もちろん、日本人の特徴としてあげられる完全主義的な傾向があることは否めない(25)。また、テキストを読むことがひとつの芸になっている例は、日本の伝統的芸能の義太夫にも見られる。
また、歌詞を見ることは、しろうとらしさをも演出している。つまり、憶えているほどその曲を聞き込んでいるのではないというメッセージを発している。あるいは、借り物としての自己を表現しているという「作為的な自己演出」をしているともいえる。歌詞が提示されることによって、音楽、あるいはその曲とは一定の距離をおいた存在として、歌唱者は存在することができる。こうした音楽から距離のおいた歌唱者のありかたは、伴奏に対して反応が期待できない歌唱者のありかたと近似的である。歌詞の提示に対して機械的に反応した行動にすぎない歌唱行動は、伴奏が機械的に再生されていることにちょうど対応している。自分が歌ったという気分の高揚が、カラオケというテクノロジーに依存して初めて成立していることに気がついたとき、歌唱者は、自分の主体のありかを見失うのではないだろうか。テレビモニターが次々と提示する歌詞をメロディーとリズムにのせて機械的に音声化することに没頭するあまり、歌唱者自身が、なにを歌ったのか憶えていないということも少なくないのである。
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A Study of KARAOKE [3]
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