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槙田 盤『テクノロジーへの依存による音楽体験の変容』(1992)
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 第4章 考察

 歌唱行動の歴史は、人類の歴史と同じ長さを持つといわれるほどに、人間にとって歌を歌う行為は身近なものである。演奏行動の中でも、楽器を使用することもなければ演奏技術もさほど必要としないもっとも容易なものである。さまざまな人々が、あらゆる場において、歌を歌っていた。ところが近年、カラオケがなければ歌えないという人が増加する傾向がある。もっとも身近な演奏行動が、もっとも高度なテクノロジーに依存しなければ成立しなくなっているのである。この4章では、こうした傾向がどのような感性の変化によってあらわれたのか、こうした傾向によって音楽体験がどのように変容しているのかという問題について考察する。

  第1節   模倣・自己表現の演出

   4.1.1.   演技

 音楽の演奏行為とは、現実の行為とは切り離された行為であるという点で、ある種の「演技」であることはたしかである。そればかりではなく、意識的な意志を持っておこなわれるその行為の目的が、その行為の現象としての結果ではなく、第三者の意識に働きかけることであることにおいても、演奏は、演技との共通している。
 ただし、「演技」の定義する行為は多岐にわたり、また、類似する行為を含めると、日常生活のさまざまな行為の中に、われわれは演技的な要素を認めることができる。純粋に演技としておこなわれる行為から、逆にまったく行為者が意識していない実直な行為にいたるまで、その程度に差はあれども、あらゆる行為は演技であるともいえなくはない。しかし、音楽を演奏する行為は、意識的で能動的なものであり、日常生活における行為と連続したところには存在しない。たとえば、ミュージカルの舞台や映画において、登場人物が日常会話から歌へ移行する際にあまり違和感を感じないのは、その観客がミュージカルという様式を自明のものと認めているからにほかならない。しかし、その観客がそうした様式をしらなければ、日常会話が歌でおこなわれている光景なんて考えられないであろう。歌と会話は、その発話者の意識として、まったく異なるコミュニケーション方法である。ところが、カラオケを利用すれば、それほど能動的に演奏への意志を持たなくても、日常的な行動の延長として演奏が可能である。
 もちろん、演奏行動そのものが、そうした演技の要素をたぶんに持ってはいるが、カラオケの場を、演技空間として日常生活から分離するために、さまざまなきっかけが用意されている。第3章で考察した通り、マイク・歌詞の提示・声の変形・コインの投入などが、自己演出のきっかけとなっている。それらによって、カラオケによる歌唱者は、日常の自己から分離された「演技する主体」として位置づけられる。
 しかし、もちろん、カラオケの場合、目の前に聴取者がいることが多い。むしろ、聴取者が周知の知り合いであることが多いことに注目すると、演奏者と聴取者との関係は、大規模なコンサートホールにおける演奏者と聴取者の関係よりも、親密であるともいえる。日常的な人間関係の上に、音楽のコミュニケーションを重ねあわせることによって、カラオケによるコミュニケーションは成立している。そこでは、演奏会などでみられる音楽の自律性は、あまり重要視されていない。カラオケの歌唱者は、人間関係においては聴取者と深いつながりがある。

   4.1.2.   模倣

 カラオケは、モデルとなる歌唱の伴奏として制作される。カラオケによる歌唱者は、カラオケ制作者によって意識された(つまりモデルとなる演奏の模倣をしているかぎり、(疑似的にせよ)演奏全体がまとまったものになる。このように、カラオケにおける「演技」は、モデルとなる歌唱の模倣としてあらわれる。ものまねや独自の歌唱によってモデルの模倣を逸脱しようとしても、カラオケにあわせられるものでなければならない。カラオケが、「枠」になり、自由な演技を妨げている。
 曲を特定の歌唱者から切り離された作品として認識しているならば、自分なりの曲に対するアプローチによる歌唱が、より多く存在してもおかしくない。しかし、特に、日本のポピュラー音楽においては、さまざまな人が同一の曲を歌うことは少なく、「スタンダード」と呼ばれる楽曲は少ない(26)。2.2.で述べたように、人々は、特定の曲を、特定の歌唱者によって歌われたあるレコードで繰り返し聴取している。その結果、その作品を、あたかもその歌唱者の所有物であるかのように認識している。(たとえば、「森進一の<おふくろさんよ>」などというふうに。)カラオケの場では、マスメディアによる聴取体験の共有によって、特定の歌唱者と楽曲との関係性が強く意識されている。あくまでも、マスメディアにおけるプロの歌唱が「ほんもの」であり、カラオケでの歌唱は、すでに体験されてしまっている「ほんもの」を再確認しているにすぎない。少なくとも「ほんもの」を意識している限りにおいて、カラオケには、歌唱者は、「ほんもの」から大きな影響をうけている。こうした状況において、歌唱者が、その影響をほとんど意識していないことが問題となる(27)
 しかし、カラオケによる歌唱が、単なる模倣であるからといって非難されるべきではない。演奏と模倣の差異は連続的なものであり、音楽の演奏の学習・習得は、模倣を通じておこなわれている以上、そこからすぐれた音楽が生まれてこないとは限らないからである。また、模倣を模倣として楽しみ洗練させる価値観を、まったく否定するわけにはいかない(28)
   4.1.3.   遊び

 カラオケの歌唱者にとって、歌うことによってそのオリジナルを「偽装」することが目的なのではなく、歌唱している自分を見せ、聴かせることそのものが目的なのだ。カラオケでは、歌という自己表現において、なんらかのメッセージを伝えることよりも、いかになにを表現するかということ、つまり自己をどのように演出するかが重要視される(29)。内容よりも方法が重要視されるこうした表現行動は、「遊び」の範疇で理解できる(30)。遊びとしての模倣は、たんに「別人になりきる=偽装する」ことが目的なのではなく、「ふりをする」ことよってあらわれた虚構と現実との差異によって、現実の行為者自身の存在を逆に顕在化させる。
 カラオケが遊びであると考えると、カラオケがゲームセンターの中に設置されていることは容易に納得がいく。カラオケでの歌唱行動は、その場かぎりの遊び=ゲームの感覚でおこなわれており、記録したり、あとから鑑賞対象になるようなものではない。また、「かくし芸」に利用されたり、歌の評価が点数で表示される機械が存在することも、カラオケの遊びの要素を象徴している。

   4.1.4.   自己演出能力

 こうしたコミュニケーションにおける自己演出能力が今日、あらゆるの場において人々に求められている。ひとりひとりがみずからの演出者として自己相対的に分析していると同時に、自分という役割を演じている(31)。そこにあらわれる自己とは、意図的であるかどうかにかかわらず、すでに演出されたものであり、しかも、ひとりでいくつもの役割を、その場所におけるみずからの役割によって演じわけている。
 カラオケの歌唱のモデルとなりうるマスメディアにあらわれるプロの歌唱者自体がすでに、こうした演出の結果として人々の前に存在している。特に若者に人気の高いアイドルと呼ばれる歌手は、綿密なシステムによって、マスメディアの中で育てられた人格である。しかも、今日のそのありかたは、その演出のされかたまでが人々に理解できるかたちでなされる傾向にある。つくられた自己を演じているプロの歌唱者を、カラオケの歌唱者は、モデルとして演じるのである。演出が重層的におこなわれた結果、もはや、オリジナルとモデルという関係は相対的なものになってしまう。そうして自己を相対的なものとして演出することによって、ほんとうの自己は隠蔽される(32)
 そもそも音楽の演奏者は、音楽という非日常的な行動様式にのっとり、自己表現をおこなう。その意味において、あらゆる状況において音楽を演奏する人は、ある種の自己演出をおこなっているともいえる。しかも、ここで表出させる自己は、日常の行動規範から独立した音楽の世界における自己であるから、ふだん見せている自己とは異なる自己を演出しやすい。「マイクをもつと人格が変わる」とは、マイクを持つことによって、歌を歌う人であるという役割を与えられた歌唱者が、日常の自己とは異なる自己を表出することに抵抗がなくなっている状況を端的に示している。
 カラオケで歌うとプロ歌手になった気分が味わえることは確かである。自分の歌のための伴奏が聞こえ、ハンドマイクとエコーによって自分の声が変形され、伴奏とミキシングされてスピーカーから流される−こうした音楽体験は、一般大衆にとっては、カラオケ以外にはありえない。しかし、この事態をマスメディアからではなく、個人からみればどうなるであろうか。みずから望んでおこなう個人のコミュニケーション行動が、マスメディア的なシステムに支えられなければ成立しないほどに、人々はマスメディアに影響されているのである。カラオケの場においては、目の前の人に自分の歌を聴かせる、メッセージを伝えるとことよりも、その歌唱者が、あたかもプロであるかのように装飾されていることが重要なのである。その結果、カラオケによる歌唱は、歌う対象がいなくても成立すると同時に、不特定多数を対象としても成立し得るであろう。

  第2節   聴取

 2.1.で考察したように、音楽を聴取する行為とは、聞こえる音を受動的に聴覚でとらえることではない。もちろん、その積極性の度合いはさまざまではあるが、音楽という音によって構成されたひとつの世界を、自分のなかで積極的に再構成することにほかならない。音楽を聴いている人が、演奏を口ずさんだり、あるいは声にしないまでも、音楽にあわせて身振り手振りをすることは、聴取者が演奏の聴取と予期を繰り返していることの身体行動へのあらわれである。そうした聴取行動の延長として、カラオケの歌唱行動は、位置づけられる。
 複製技術は、聴取者にみずから選んだ楽曲を再生する能力を与えた。どのような環境において、どんな音楽を聴くのか、音環境をつくり出すことも、聴取者の「聴取」行動の重要な要素である。携帯用の音響機器(ウォークマン)や、車の音響機器(カーステレオ)を利用するによって、今日私たちは、こうした行動を日常的に実践している。
 また、現代芸術としての音楽の動向も、ほかの芸術の動向とも連動して、以前にくらべて「聴取者の主体性」を求める傾向にある。音楽の存在する場所が拡大し、もはや「演奏」されているものを聴取するといった従来の演奏会スタイルを廃して、聴取者が楽音ではない音に注意をむけるようにする「作品」がある。また、いままでおざなりにされてきたた日常生活環境の中の音を再評価する動きもある。カラオケは、こうした積極的な聴取行動の中に位置づけられることができるかもしれない。
 しかしカラオケは、あくまでも限定された楽曲の枠を越えることはない。カラオケで歌われる楽曲は、マスメディアによって何度も複製されたものであり、歌のパートを除けば、聞き慣れた録音の繰り返しであり、そこに新しい発見はほとんど見られない。しかも、その歌すらも、演奏全体の中では重要な役割を担っておらず、誰がどのように歌ったとしても、もとの録音のイメージはなくならない。。カラオケによる音楽体験とは、聴取体験を共有しているすでに何度も再生されている楽曲をほんの少し生演奏の側に引き戻すことによって追体験することなのである。

  第3節   時間の流れの共有と人間関係

 音楽は、時間芸術として、演奏者と聴取者とが共有する内的な時間の流れの中で成立する。人々は、ふだん意識することのない時間の流れを音楽の演奏に感じ、また、音楽体験によって、時間が停止している、あるいは永遠の時間の中にいるような錯覚をおぼえることがある。カラオケによる音楽体験で得られないのは、この時間の流れを感じることと、それを複数の人々で共有しているという感情である。

 演奏される瞬間、演奏者も聴取者も、直前の過去に演奏をされた音楽を聴き、直後の未来に演奏されるであろう音楽を予期する。演奏者は、その予期を現実にするために演奏行動をおこなう。予測した演奏が立ちあらわれる瞬間に立ち会うことによって、演奏者のみならず、聴取者も主体的に演奏にかかわりあっているといえる。そこでは、時間の流れが生き生きとした現在の連続として感じられる。演奏される瞬間という「現在」は、演奏される瞬間、つまり、聴取された過去と、予期される未来のあいだとして認識され、その連続が時間の流れとして感じられている。上述した「永遠の現在」という感覚は、音楽の進行と内的な時間の流れとが同調することによって、時間を時間の流れとして意識される瞬間に感じとっているからではないであろうか(木村 1988 参照)。
 演奏者と聴取者とは、それぞれが独立した意識体であり、その意識の内部に生じる時間の流れは、それぞれ独自ものである。ところが、が、同じ演奏を媒介にすることによって、あたかも時間の流れそのものを共有しているように感じられる。主体的な予期が現実化したことを確認している点において、演奏者と聴取者との差はない。その「共時性」によって、演奏者と聴取者とはむすばれているといえる。音楽をとおして主体的な時間の流れを共有できるのである。
 複製技術の時代において、音楽の演奏は、「すでに存在している時間の流れの再現」でしかない。この点は、聴取行動における聴取者から演奏者への影響を極小化して考えると、あまり問題とはならない。複製技術の普及によって、人々は、再現される時間の流れに自分が「のる」能力を身につけるようになった(33)。しかし、具体的な行動をともなうカラオケにおいては、その行動に反応し得ない「再現」であることは、重要な問題となる。カラオケの場にいる人々は、時間の流れから「疎外」されることによって、音楽そのものとの関係性を失っている。

 音楽を演奏する行為における演奏者の美的体験として、2.1.で考察したように、演奏者どうしのコミュニケーションの充実した成立がある。やりなおしのきかない時間芸術として演奏を成立させるためには、指揮者に合わせて、あるいは、あらかじめの打ち合わせによって、テンポや休符の取り方など演奏全般にわたって合わせなければならない。こうした楽譜の解釈を共通に認識することは、複数の演奏者による演奏を成立させるためには、技術的に必要なことである。もちろん、個々の音楽経験によってつちかわれている解釈が全く同じことはありえず、演奏者どうしが、自分の解釈を披露しあいながら、演奏者総体として、演奏を創りあげていかなければならない。そこには音楽を媒介とした人間どうしの生き生きとした関係が成立している。こうした関係をカラオケによって、演奏者は失ってしまった。もはや、人間どうしでこうした関係がたもてなくなったところをカラオケがおぎなっているのかもしれない。(34)


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A Study of KARAOKE [4]
upload by MAKITA Van at 21 Jan. 1996
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