カラオケによる歌唱行動は、自分の行動は音楽の演奏という世界の進行に関与できないという絶対的なあきらめのもとに成立している。複製されたカラオケの演奏は、歌唱行動を助ける形態をとりながらも、演奏の主導権を握っている以上、絶対的な規範として存在している。こうした規範は、容易に音楽そのものが内在している自己運動的な必然性、つまり「第三者」的な聴取者の規範と重ね合わせて考えられることが多いが、決してそうではない。
カラオケでならば歌が歌えるという人が存在するが、そうした人は、歌唱行動が可能になったのではない。他律的な演奏の進行に合わせて、歌詞をメロディーにのせて声として発することが可能になっただけである。そこでは、音楽体験における重要な感情充足である人間どうし、あるいは音楽そのものとの「共時性」がうしなわれている。人が、みずからの生きている現在を意識できる貴重な機会である音楽体験においてすら、「共時性」は失われてしまっている。人々が音楽体験によって時間の流れを意識し、自己の存在を確認しているとすれば、カラオケは、音楽体験からこの役割を奪い取っていることになる(35)。
ところが、カラオケでも聴取者に感動を与える歌唱者は存在する。ポピュラー音楽のレコードが製作される段階にカラオケ的な編集作業が組み込まれていることからもわかるように、カラオケで歌われる演奏すべてが感動を与えないわけではない。複製された対象とであっても、自分との間に自分の意識として間主体的な関係が構築できるならば、カラオケという装置の問題はなくなる。
複製技術の普及によって、人々は再生された音楽に対しても「のる」能力を身につけた。カラオケは、その能力を演奏行動にまで拡大されたものとも説明できる。しかし、聴取行動が、情報伝達が一方向的に受け取る状況になりうるのに対して、情報を発する側である演奏行動において、双方向的な関係のないままに「のる」能力とは、どのようなものなのであろうか。聴取行動のあとに発せられる歌唱者の歌唱「情報」が、そこでの音楽演奏の成立に対してなにも貢献していないのであれば、歌唱者の存在意義がなくなってしまう。
こうした状況において歌唱者が演奏に貢献するためには、演奏者、あるいは音楽そのものへの働きかけをあきらめず、自分の歌唱がミキシングされた結果としての演奏を主体的に予期し、その実現にむかって行動をおこすしかない。そのためには、生演奏の場合よりも客観的な分析能力と演奏能力が求められるであろう。カラオケは、演奏体験の延長として位置づけるられなければならない。カラオケに「のり」ながらも、のせられていてはいけないのである。
生演奏をしたことのある人であれば、カラオケを利用する際でも、演奏によって他者に働きかけることは容易であろう。ところが、演奏者どうしの関係を楽しんだ体験をもたない人は、聴取行動の延長でしか演奏できない。生演奏からカラオケへなスムーズに移行できるのに対して、カラオケから生演奏へは移行できない。そうした意味においては、カラオケは、そこからつぎに進むことのない「袋小路」なのである。カラオケの場においては、この論文で筆者が想定してきた音楽のありかたそのものが変化している。その影響は、人々の音楽的感性一般にあらわれるであろう。
そこまで考察が至ったとき、筆者は改めてカラオケの「枠」について考えを及ぼさないわけにはいかない。将来的に、あらゆる楽曲が用意され、歌唱にリアルタイムで反応し「あわせて」くれるカラオケ装置がつくられるかもしれない。しかし、どこまでテクノロジーが発達したとしても、生身の演奏者のように意志を持ち、歌唱者の側に積極的に働きかけることによって「自己主張」する装置は生まれてこない。
カラオケは、新しい音楽体験のありかたを実現させた反面、内的な時間の流れを共有しなくなったことによって、演奏者どうしや聴取者と、また、音楽そのものとの関係性をたちきり、演奏者の存在をも必要としなくなった。カラオケは、人間のかかわりを否定しながら音楽を存在させる。その際、音楽は、何のために存在しているのであろうか。カラオケに限らず、テクノロジーに依存することによって音楽が失ったものが何であるのか、人間が失っているものは何であるのか、いちど立ち止まって考える必要がある。
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A Study of KARAOKE [5]
upload by MAKITA Van at 21 Jan. 1996
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