現代”カラオケ”考−学際的接近の試み−/関西地区例会1990.3.21.
現代”カラオケ”考−PART II 利用者を中心に−/関西地区例会1990.9.15.
カラオケ/全国大会1990.11.11
テクノロジーと音楽−「日本」を越えたカラオケをめぐって/全国大会1991.11.23.)
今、P によって登場人物を、Sp によって観客を示し、分布主義的言語学から発想を得て図式化すれば、次のようになる。演奏者どうしのコミュニケーションによって音楽が成立し、それを聴取者が聞くという音楽における構造は、佐々木の演劇における構造と類似している。[ <P1-P2> -Sp ]
内側の <-> は劇中人物同士の内世界的コミュニケーションを表わし、外側の [-] は劇世界と観客との間の芸術的コミュニケーションを表わす。 (p.253)
Karaoke ,originary a trade jardon used by recording engineers in the music business,is a taped performance of orchestral accompaniment minus vocals (kara means "empty"and oke"orchestra",and hence " an orchestra without voice").
「昭和四十七年ごろでしたね。カラオケは新人歌手が新曲を全国キャンペーンするための機械として、専門メーカーによって盛んに開発されていたんです。伴奏楽団を同行させる費用の節約になるから、歓迎されたものです。」
ある落後家は、こんなものを相手にしちゃあ、ハナシができねえや、人間を連れてこいと居直った。 ある学者は、マイクを見たとたんに、こんなへんてこなものにむかってマジメに話はできぬ、と憤然として帰っていってしまった。話者は、自分の話を聞いて反応する相手を必要とした。しかし、メディアの普及によって、こうした関係性がなくとも話すことができるようになり、むしろ、マイクのほうが生身の人間よりも”すぐれた”聞き手であるという意識さえ生まれるようになった。粉川哲夫による次の指摘は、註27で引用した実験の結果として彼自身が感じたことである(粉川 1982:31)
この一連の実験を通して明瞭化したことなのであるが、テープレコーダーのマイクに向かってしゃべるということは、生身の他者に向かって話しかけるよりも−−それがたとえ衆人環視の下であっても気楽であり、人によってははじめは大いに抵抗があっても、じきに苦痛でなくなり、ときには陶酔感すら与えるようになるということである。これは、われわれの中に、テープレコーダーは生身の他者よりもはるかに”すぐれた”聞き手なのだという信仰がつくられてしまっているのでなければ不可能なことではなかろうか?
ハンドマイクは、歌手にとって初めは異物であるが、ひとたび手にとって歌い始めれば身体の一部となってしまう。よくマイクを持つと人が変わるなどと言われるが、その通りなのであって、マイクを持った瞬間から人間が「マイク=人間」になるのである。スタンドマイクでは、「マイク=人間」にはなれない。スタンドマイクでは、人間はあくまでも「人間」対「マイク」として、「マイク」に立ち向かう。このスタンドマイクでも歌えるのがプロの歌手であった。 ハンドマイクでは、素人でも容易に「マイク=人間」へと変身することができる。自分は音痴であると自覚し、楽譜も読めないし、楽器も弾けないという音楽コンプレックスのかたまりで、人前で一人で歌うとこなど思いもよらなかった、「昭和一桁世代」にとって、ハンドマイクは魔法の杖だった。それを握るだけで「マイク=人間」へと変身し、歌えてしまうのだから。おまけにエコーがかかり、自分の声ではないように聞こえる。
テープレコーダーやVTRにしても、どう組みかえたところでその構造は変わりようのないプログラムをたんに技術的・ハードウェア的なレベルでだけ”自由”に組みかえさせて、使用者を−まさにカラオケにおける−エセ・プログラミングの快感のなかにつかのま”解放”するだけの支配装置の機能をはたしてしまう。
酒場などでもマイクロフォンを用意してお客に歌わせるようにしてあるところがかなりある。またそうでないところでも、お客がうたい出すと催促されるのか、流行歌集というようなものを用意しているところがある。だれかがうたう、ところがメロディーはよく知っていてもその歌詞を全部覚えていない。たいていはうろ覚えである。しかし、たいてい、きまってその歌の歌詞を全部うたいたくなる。メロディーだけでは我慢できないのだ。
そこでだれかが歌謡曲集をとり出すか、だれかが歌詞を教えて書いてやったりする。するとみんなは安心して、その歌詞にむらがり、大声で、一斉にバラバラにうたい出すのだ。まったく勝手気侭に、だれとも声を合わせることもなく、アンサンブルなんてとんでもないという風情でみんながたったひとりで、しかもひとつのとりとめもない、たいした意味もない歌詞を三番四番と正確にうたわないと安心できないし、うたった気にならないのである。これはなんということなのであろう。
だれかがうたい出す。するとだれかがその声に低いか高いかで合わせる。それがひろがってやがてハーモニーが生れる。或はだれかがピアノかギターをひく。するとだれかがそれに合わせてハミングし、まただれかがそのハミングにハミングを合わせる。こういう風景はよく外国の映画などでは見かけるし、また最近は、ごく若い一部のひとたちの間では見られることかもしてない。しかし、おおかたの平均的日本人が歌謡曲を歌う場合は、バラバラの孤独な陶酔である。
歌詞だけ読むとつまらぬといい、それをわざわざ暗唱しようなどというひとはいないのに、自分がうたうとなるとそれなしにはうたえない。ということは、メロディーはリズムのためよりも、そこにある歌のコトバを自分に語るための手段でしかないということになる。いや、歌のコトバもそれを自分に語るというより、そのコトバを端になにかを語るメディアにすぎぬのかもしれない。歌は、フシのついた語りであり、ただそれが急に自分で自分のコトバが出てこぬものだから、仮につくってそこにあるコトバが必要なのである。勿論、いいコトバなら、うたうひともそのコトバにも酔っている。
このような隠し芸の競演は、口述の声色や物まねとも結びつき、またカラオケが盛んになる一つのきっかけとなった。ここでもうまくうたうための研究心と完全主義がはたらいている。
プログラムが独占されているためにわれわれの身近なハードウェアの機能がいかに矮小化されてしまっているか、またその逆に、プログラムが使用者の掌中にもどるとき、そのハードウェアがいかにゆたかな可能性を発揮するかについて、わたしは最近、おもしろい体験をした。非常勤で行っているある大学でガダリやエンツェンスベルガーのメディア論の議論に端を発して、わたしを含めた参加者の一人一人がカセット・テープレコーダーを使って”番組(プログラム)”を製作する試みを行なったのである。最終的に一〇〇本以上集まったテープをきいてみて言えることは、われわれが意識的・無意識的に既成のラジオ番組−とりわけディスクジョッキー−のプログラムの影響を受けており、マイクに向かうとそれを模倣しがちだということだ。
この点で、カラオケほど今日の日本の社会・文化状況を象徴している装置はないのではあるまいか? それを使う者は、実際上あやつり人形として機能するわけだが、少なくとも心理的には、歌うという−−つまり何かを能動的に表現するという−−”疑似イベント”にひたることができるという意味で、ここにはナルシシズムの積極的な利用がある。が、カラオケが爆発的に普及したのは、歌のへたな者でも何とか歌うという体裁を保ち、歌うということの自己満足を与えられるというだけからではなく、かつては−−たとえへたであれ−−一人一人が肉声で歌をきかせあうことによって親密さを増すことができたような集団生が崩壊しつつあるからである。カラオケのマイクを握る者は、肉声の場合のように決して他人に向かって歌いかけるのではなく、むしろ自分に向かって、そしてテープにセットされた音楽のレコードに向かって歌うのである。つまりカラオケで歌うということは、集団への帰属や連帯よりもナルシシズム的な孤独の快感へ没入させるのであり、その意味において、カラオケで維持される宴会や酒席とは、すでにナルシシズム的な個々人の偶然的な集合でしかなくなりつつある日本的集団性の形骸だけを、エレクトロニクスによってシミュレート(人工的に模造)したものなのである。
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A Study of KARAOKE [notes]
upload by MAKITA Van at 21 Jan. 1996
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