Early Takarazuka [intro]

日常生活と音楽研究会・関西例会 講演会記録

細川周平講演
「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」

 この講演「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」は、細川周平さん(音楽学者・もと東京芸術大学助手)をおまねきして、日常生活と音楽研究会・関西例会の第46回例会として、神戸大学生協 LANS BOX店2階で、1991年6月23日(日曜日)におこなわれたものです(協賛:神戸大学消費生活協同組合)。当日の司会は瀬山徹さん(会員)・コメンテーターとして津金澤聰廣さん(関西学院大学文学部教授 社会学・現代風俗研究会会員)、フロアには、会員のほかに、永井良和さん(大阪教育大学講師・現代風俗研究会会員)・仲万美子さん(大阪大学院生)や一般の宝塚ファンの方もいらっしゃいました。
 この原稿は、槙田盤が録音テープをもとに編集しましたが、細川さんをはじめとする諸発言者のチェックをうけていませんので、その責任は、槙田にあります。


細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)
[目次] [講演概略]
[はじめに] [小林一三と明治洋風文化] [お伽歌劇] [「モン・パリ」] [まとめ]
[] [参考文献]


目次

1.  はじめに
1.1.  宝塚歌劇を研究するということ
     1.宝塚体験は少ない 2.ファンでない立場からの文化史的な研究
     3.関西での研究への期待
1.2.  初期『歌劇』の特徴
     1.「初期宝塚歌劇」 2.多様な内容の混在

2.  小林一三と明治洋風文化
2.1.  「郊外」という文化
2.2.  少女文化・家庭文化
     1.家庭文化 2.少女文化 洋風住宅 3.子ども文化
     4.市中音楽隊 5.お伽歌劇 6.デパート文化
2.3.  大劇場:帝劇の女優劇と浅草オペラ
     1.帝劇の女優劇 2.「清く正しく美しく」 3.益田太郎冠者

3.  お伽歌劇
3.1.  お伽歌劇というジャンル
     1.「ドンブラコ」お伽歌劇のはじめ 2.童謡との比較で考える
3.2.  初期宝塚歌劇におけるお伽歌劇
3.3.  初期宝塚の音
3.4.  文化輸入の際に抜け落ちたもの

4. 「モン・パリ」
4.1.  モデルになったもの
     1.岸田辰彌の旅行記という形態 2.享楽じみたショウ
4.2.  文化史的な重要性
     1.劇構造の重層化 2.階段式フィナーレの初め
4.3.  エキゾチズム
     1.『歌劇』にみられる観客への浸透 2.手が届くエキゾチズム
4.4.  音楽におけるエキゾチズム
     1.直輸入された音楽 2.実際の音を聴く 3.高い演奏技術
     4.メロディーのオリジナルは何か
4.5.  パノラマとしてのレビュー
     1.パノラマ 2.レビューの一般化・安易化

5.  まとめ
5.1.  宝塚歌劇の原点
5.2.  小林一三のいう「国民劇」

  構成者註
引用・参考文献一覧


凡例

曲の名前は、<>で囲む。
劇・映画のタイトルは「」で囲む。
英語の単語の切れ目は、半角で = 。
ただし、慣例として定着しているものは、全角で・。
()は、実際の発言内容を編集者がくくったもの。
編集者の註は[]で示した。


講演概要

日常生活と音楽研究会 NEWSLETTER 原稿として、91.10.14.に脱稿したものです。(槙田盤)

細川周平講演
「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」

 この講演は、(日常生活と音楽研究会の:まきた註960204)第46回例会として、神戸大学生協LANS店2階で、1991年6月23日(日曜日)におこなわれたものです(協賛:神戸大学消費生活協同組合)。当日の司会は、瀬山徹さん(会員)・コメンテーターとして津金澤聰廣さん(関西学院大学文学部教授 社会学・現代風俗研究会会員)、フロアには、会員のほかに、永井良和さん(大阪教育大学講師・現代風俗研究会会員)・仲万美子さん(大阪大学院生)や一般の宝塚ファンの方もいらっしゃいました。

 細川周平さんは、関西支部の会員ではありませんが、日音研とは深い関わりをもたれ、今日では日本におけるポピュラー音楽研究の第1人者といっても過言ではない活躍をされています。現在はブラジルに滞在されていますが、日本にいる間に関西で宝塚の話をぜひしたいとの本人の希望により、おこなわれたものです。
 現在『ミュージック・マガジン』で連載されている細川さんの「西洋音楽の日本化大衆化」は、日本の明治以降のポピュラー音楽の大きな流れを概観するのに最適な論考です。いままで目が向けられていなかった分野にまでいきとどいた配慮と、柔軟な視線での考察は、おおざっぱすぎるかもしれませんが、単行本になったときには基本的な文献になると思います。今回の講演は、その中から、宝塚歌劇に関する部分を、よりわかりやすく、音楽も含めて聴かせていただいたという感じになりました。

 タイトルにもある「初期宝塚歌劇」というのは、第1回公演の 1914(大正3)年から昭和5〜10年をさしています。最初にいわれた研究に対する姿勢は、関西在住の研究者をおおいに刺激したでしょう。つまり、ファンではない外側からの視点で、しかも広い文化史の中で宝塚歌劇を研究する必要があるということです。特に、宝塚が発行し続けている『歌劇』という雑誌は、初期においては、前衛的な啓蒙・小林一三の信念・ファンの声が混在する点でユニークであると同時に、宝塚のみならず当時の関西の音楽シーンを研究するのに重要な文献であることを指摘されました。そして、「池田文庫に全館揃っていますから、かよってみることをおすすめします」と。

 まず、第1部は「小林一三と明治洋風文化」として宝塚少女歌劇を準備した当時の文化史的な状況をまとめられてました。ひとつめが「郊外」という概念の成立・ふたつめは少女文化の成立(これには家庭文化・こども文化・デパート文化?の成立がベースになっています)・みっつめが帝劇の女優劇と浅草オペラです。現在の宝塚線しか持っていない阪急は、沿線を住宅にし、終点に娯楽施設を作ることによって乗客を確保していきます。これは、単なる経営戦略としてではなく、郊外という新しい文化を積極的に実現させることにつながっています。啓蒙的な音楽雑誌にある「家庭音楽」のイメージが、現実には定着していない洋風住宅とむすびついているという話には興味をおぼえました。また、<帝劇の女優劇>−<スキャンダル>=<宝塚の生徒>という式は、言い得て妙です。

 第2部は「お伽歌劇」です。もっとも初期の宝塚少女歌劇は、お伽歌劇でした。初演の時の題目である「ドンブラコ」は、お伽歌劇というジャンルを成立させた重要な作品でもありました。しかし、お伽歌劇はすたれていきます。その理由を細川さんは、童謡との比較の中で説明されます。つまり、お伽歌劇は童謡によってつぶされたというのです。そして芸術性を全面に出させると弱い体質は、現在の状況にも通じると。
 たしかに音を聴かせてもらうと、稚拙な感じがいなめません。しかし、録音や演奏技術の点では条件は童謡と一緒ですし、やはり、メンタルな部分で軽視しているのでしょうか。
 去年あたりから吉本新喜劇が東京人に「発見」されたのは、娯楽に徹したナンセンス性が評価されたからかもしれません。そんなものは、日常会話のあちこちに見られるほどに、関西人には身についているものです。とすれば、宝塚でお伽歌劇がおこなわれなくなっていく理由としては、生徒たちの成長と、飽きたらなくなった観客という図式だけでは説明がつかなくなります。観客の質的な変化−−ありていにいうと階層が上がっていくこと−−も重要ですし、決定的なのは、4000人劇場は、お伽歌劇には大きすぎるということでしょう。
 西洋音楽を輸入する際に、なにが輸入されなにが抜け落ちたかを検証する必要があることを細川さんは強調されました。この点は、次のレビューにつながっていきます。

 第3部は「モン・パリ」です。この作品によって日本ではレビューが一般化していきます。つまり、関東大震災でやられた浅草オペラを浅草レビューとして復活させ、松竹などあちこちでレビューと称されるものが流行する大きな要因になります。
 ストーリーは、宝塚の作家である岸田辰彌が神戸を出発して、パリへ至る船旅の寄港地を順にみせていく旅行記です。宝塚の観客ならばだれもが知っている岸田の旅行記は、海外旅行のエキゾチズムが自分にも手が届くと感じられたようです。外国のエキゾチックな場面は、それまでの宝塚にもありましたが、それが『歌劇』の詩や短歌の投稿欄に顕著にあらわれるという例は、たいへんおもしろかったです。例として出された短歌は次のようなものです。
  「みはるかす メソポタミヤの 砂の地よ 流るる月の 光は青き」
 ここでレコードを聴いたのですが、早口で古風な言い回しの口上、チャップリンの映画のテーマ曲の歌詞を代えたもの、今と変わらぬ笑い方など「百聞は一聴にしかず」です。私たちがあまりに興味深く聴いていたので「もうしゃべるのやめた」と細川さんが言い出す一幕もありました。
 確実にいえるのは、演奏も曲もそれ以前よりレベルが上がっていることです。実際に経験してきた岸田の細かい指導もあったのでしょう。しかも、岸田によって外国の文化が宝塚風に周到に改変されてあらわれたのです。
 細川さんが強調していたのは、中国風のメロディーのオリジナルがなんであるかわからないことでした。おそらく西洋のショーで使われていた中国風のテーマ曲なのでしょうと推測されていました。お隣中国のイメージもパリ経由で輸入する構図は、現在のワールドミュージック「ブーム」とまったく同じではないか。
 串田福太郎(岸田のこと)が語り手として舞台で口上を述べ、それにともなってそれぞれの場面に別の串田が登場するという重層的な劇構造になっています。これは、鉄道旅行での窓からみる「パノラマ」風景のような視覚体験です。ストーリーがないぶんスピードのあるスペクタクルがきわだつというレビューも、一般化するにしたがって安易な方向に流れていきます。細川さんは、大衆文化全般を考える上でも、レビューの原点である「モン・パリ」をきちんと検討する必要があるといわれました。

最後に、小林一三のいう「国民劇」について言及されました。「国民」という言葉は、明治時代には国家概念と密接に結び付いていましたが、大正なかばに小林がいうときの「国民」は、現在いう「民衆」とほぼ同義です。それが昭和12年頃に戦争体制に読み代えられていきます。つまり、言葉の意味が元に戻ったというのです。

 神戸大学生協からお菓子を提供していただいた休憩をはさんで、ディスカッションに入りました。まず、講演の中でもしばしば取り上げられた『宝塚戦略 小林一三の生活文化論』(講談社現代新書)の著者である津金沢さんがコメンテーターとして、小林の考えも変化している点・歌舞伎への反発と邦楽の魅力との矛盾が小林の中にあるといった話をされました。大階段のルーツはベルリンのモダニズムではないかという話もあるようです。
 永井良和さんは、最近出版された『社交ダンスと日本人』(晶文社)のなかで、直接宝塚歌劇には関係しませんが、当時の音楽状況にもふれられており、関西の社交ダンスの中心的ダンスホールである宝塚会館の話などをされました。社交ダンスにおいても、西洋文化のどこを「切る」かという問題があります。大衆文化として低俗化するなかで、社交ダンスは警察に管理され、現在でも風俗営業法の枠内にとどまるなかで「競技ダンス」として市民権をえる方向にあります。
 現在の宝塚において良家のこどもを親が宝塚に入学させようとする傾向がおもしろいという発言に対して、良家のこどもが入学する傾向は意外に新しいのではないかという意見もありました。また、専属作曲家制度のユニークさや、パンフレットに当時でも珍しかったであろう5線譜が添えられていること、録音技術の発達と演奏技術の発達の関係性についても論議がありました。

 この講演を文章化したものを準備中です。なんらかの形で発表できればと思っています。また、これを機会に、宝塚歌劇を研究として取り上げる機運が、特に関西で盛り上がることを期待します。ちょうどこの9月に発行された大阪音楽大学音楽研究所の『音楽研究』第9巻に塩津洋子「宝塚少女歌劇と浅草オペラ −その存亡の理由再考−」という論文が掲載されています。槙田も、研究と称して、足しげく宝塚にかよっています。こんどは、初めて1階席でみることができます。では。


このページは、細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)の目次と論文概略です。(まきた)

A Study of KARAOKE [intro]
written by MAKITA Van at 4 Feb. 1996
original at http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vmakita/ezuka-intro.html
Contact vmakita _at_ an.xrea.jp