Early Takarazuka [speech]
細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)
[目次] [講演概略]
[はじめに] [小林一三と明治洋風文化] [お伽歌劇] [「モン・パリ」] [まとめ]
[] [参考文献]


1.  はじめに

1.1.  宝塚歌劇を研究するということ

  [1.1.1.  宝塚体験は少ない]
 関西にきて宝塚を話すというのは、ザルツブルグにいってモーツァルトをぶちまけたり、スペイン人に向かってフラメンコをしゃべるようなもので、非常にプレッシャーを感じています。自分自身は何も、宝塚をライフワークのようにしてやっているのではなくて、「明治以降の洋楽の大衆化」という雑誌の連載(*1)の中で浮かび上がったテーマです。宝塚に関してうんちくや、個々のスターについての知識はありません。実際に見にいったのは、東京で2回と関西で2回ぐらいで、誇れるほどの体験ではないのです。

  [1.1.2.  ファンでない立場からの文化史的な研究]
 しかし、宝塚についてのことは、ほとんどファンである「中にいる」人が語っているので、いかに宝塚が素晴らしいか、小林一三が偉大であったかを内側からほめたたえるような話がほとんどです。また、出版されている本のほとんどが、スター本かそれに類する話、またその周辺にあってスターのエピソードを語るものでし。ところが、宝塚を演劇・オペラ・音楽などといった広い文化史のなかで見ている本があまり多くない。そこで、ぼくのような決してファンでない人間が宝塚について語る場所がまだあるのではないかと思って、連載で、宝塚のことと「モン・パリ」のことを書きました[細川 1991b,1991c]。今日の話も、ファンの人からみるとつまらないものかもしれませんが、ファンでない人が宝塚にアプローチする際にヒントになればと思って話をしたいと思います。

[1.1.3.  関西での研究への期待]
 特に、ここ数日、池田文庫(*2)に通って、戦前の宝塚についての文献を読んでいるのですが、みなさんのようにすぐにその気になればいける人に宝塚に関心を持ってもらえれば、ファンでない立場からの批判・本当に身のある研究ができるのではないかと思います。その助けになればと思って、今日はやるわけです。大正から昭和の始めの文化について研究するならば、『歌劇』が全巻そろっていますから、かよってみることをおすすめします。

1.2.  初期『歌劇』の特徴>/A>

[1.2.1.  「初期宝塚歌劇」]
現在の宝塚は、すでにどういうものであるか皆さんに説明するまでもなく、ああいう化粧・メイク・筋立て・階段であり、公演のタイトルを見ただけで「ああいうストーリーだろうな」とわかるくらい、「宝塚風のもの」というものが、皆さん、特に関西の人に浸透していると思います。昭和の始めには現在のスタイルが確立するのですが、大正から昭和の始めにかけては、反対があったり、途中で今からみれば失敗した試みがあったりと、かなりの葛藤・試行錯誤があったわけです。現在ぼくが関心を持っている「初期宝塚歌劇」というのは、第1回公演の 1914(大正3)年から 昭和5〜10年のことだと思ってください(昭和10年以降は、別の「戦争文化と音楽」とかそういったテーマで別の関心があるのですが)。

[1.2.2.  多様な内容の混在]
 現在『歌劇』という雑誌がどういったものであるか、皆さんは読んだことがおありでしょうか。最初にスターのグラビアがあって、それから生徒さんのインタビューや対談、公演の時の失敗談などがあって、それからファンの声がちょっとある。そういったファンを中心につくられた雑誌です。
 しかし初期の『歌劇』は、小林一三が宝塚歌劇をつくるにあたっての信念を宣伝する場所でありました。彼の歌劇論(のちに『日本歌劇概論』になる記事の初出のほとんど)が載っていて、大正時代の日本の、特に関西の演劇・音楽・舞踊について調べるには欠かすことのできない雑誌であります。
 それと、前衛的な演劇・音楽の紹介の記事が同居しています。たとえば、ロシア革命のあとにロシア歌劇団の記事があったり、亡命して関西にいた音楽家(宝塚で指揮したことがあった)にロシアの最新の音楽について講演させたり、プロレタリアートの労農楽団は以後どうなるであろうかというアクチュアルな演劇のテーマを盛り込んであったり、昭和の始めになりますと、シェーンベルグなど、音楽の最先端にあたる人たちの紹介があったり、ラベル(現役の作曲家)やドビュッシー(だいぶん前に亡くなっていますが)など芸術方面の最新作も紹介しています。そういった新しい芸術運動の窓であったわけです。
 それと同時に、ファンの声・「宝塚専属」の評論家の宝塚賛美の声が同時にはいっているわけですね。今もほとんど変わりない少女趣味の結晶といったファンの声といったものが毎月出ています。ところが、これだけ読者の声を扱っている雑誌は、特に音楽に関してはほかにはありません。明治から大正にかけて、ほとんどの音楽雑誌は、啓蒙という形で専門の人が書いてるだけで、読者がみてどう思ったという記事はないわけです。そういう点で『歌劇』という雑誌はユニークだと思います。おそらく他の大衆文化の雑誌(映画雑誌とか演劇雑誌など)と比べたらいいのかもしれません。
 現在でもある「高声低声」という投書欄では、小林一三にたてつく、こんなのじゃいけない、といった投書が多くとりあげられています。また、どうやら小林一三自身が筆名で書いているものもあって、それに対して、ほかの方が「おそらく一三さんの筆によるものかと思いますが」といって批判しているといった、非常に手の込んだ投稿が署名入りで載っています。

 そのように、できた当時からファンを大事にすると同時に、ファンにこういうものを与えたいという理念があって、ファンとつくる側との相互的な関係がうまくいっていた例だと思います。ですから、今の『歌劇』を見て、昔もああやったろうと思ってうっちゃっておくと、これは大きなまちがいです。


2.  小林一三と明治洋風文化

 さて、大正3年に宝塚が始まってからの話は、いろいろな本に書かれていますし、小林一三自身も書いていますが、どういう文化が彼に宝塚少女歌劇を思いつくヒントを与えたか、ということを最初に述べたいと思います。ぼくは、3つのライバルを皆さんにわかってもらいたいと思います。

2.1.  「郊外」という文化

 ひとつは、東急(今の東横線)の後藤慶太という人が代表している「郊外」という文化です。(津金澤さんの『宝塚戦略』で教わったことも多いのですが)小林一三が東京から大阪にきて、ほとんど見込みのなかった箕面有馬電気軌道の創立者になります。このほとんど見込みのなかった鉄道と「郊外」という新しい中産階級の文化とを結合することで、阪急は第一歩いいスタートを切ります。
 明治の末に、職住分離の傾向が始まります。日露戦争のあと重工業=鉄鋼や電気などいろいろな産業が盛んになることで、東京・大阪・名古屋などの都市へ人口が集中するのですが、その時に、旧市街=大都会の中心がばい煙やにおいなどで汚されて、とても人が住みきれなくなる。それで外へなし崩し的に広がってはいたのですけれども、そうした時期に「郊外」という概念が誕生します。
 これは、なし崩しに広がっていくというよりも、まったく離れたところにポツンポツンと、住みやすく空気がきれいで都市の中心の職場へ不便なく通えるところというのを先に決めておいて、そこに人工的な都市をつくって住み始めるという概念です。東京では、桜新町や田園調布などが最初なわけですが、小林はそれよりも早く 1910 (明治43)年に池田室町(池田駅を降りてすぐのところ)に条理制の縦横がしっかりしている街なみをつくります[津金澤 1991:84-91]。
 宝塚の歌劇場は、こうした郊外文化の延長でできています。郊外・市内どちらの人ともの共通の娯楽の場として、浅草とか(道頓堀のあたり)に前からあった遊興の場所−−古くたどると江戸時代の「岡場所」とか「悪所」などにつながる場所−−とは歴史的にも場所的にも切り放された「さら地」につくろうとしたのが宝塚の温泉場であったわけです。少女歌劇は、こうした健康的な温泉場から、アトラクションとして派生的にでてきました。

2.2.  少女文化・家庭文化

[2.2.1.  家庭文化]
 最初は明治39・40年ごろだったと思いますが、音楽雑誌で、欧米に留学して帰ってきた人が「家庭音楽」を紹介しました。−−欧米では家庭というものがあって、そこでは息子・娘がピアノをひいてお父さんが歌うなどという形式で家庭音楽会というようなものをやっていて、それを素晴らしいものであるから、ぜひ日本にも紹介したい。今の唱歌のように学校やコンサートでだけではなく、家庭に音楽=洋楽が入って始めて真に文化的な国民になる、真に欧米に追いつける国民になるのである。−−そうして「家庭文化」が注目されるわけです。「家庭文学」というものは明治20年代末ぐらいからあるりますが、音楽はちょっと遅れて明治40年あたりからでてきます。

[2.2.2.  少女文化 洋風住宅]
 家庭音楽というのは、根本的に少女の音楽であるわけです。家庭における子どもの存在価値が重要視されていますが、その中でも、女の子が何をしたらいいのか、女の子にこういうものを与えたいということがしきりに説かれています。そういう場合には、男の子は無視されています。
 当時の音楽雑誌に「家庭音楽小説」というものがあって、「ミス・ジェイン」が、娘の「ケイト」にピアノを教えていて、カーテンに風がそよいでいるという光景が描写されています。洋風住宅と、ピアノをひいている少女というものが結びついているわけですね。畳などではダメで、イメージの中では完全に洋風住宅であります。しかし、実際に洋風住宅である「文化住宅」が日本でも建ち始めるのは大正に入ってからです。明治40年頃から、洋風の家と少女が密接な関係を持っていました。
 しかし実際には、家庭音楽というものをどうしていいかわからないわけです。それほどピアノがひける人間が多いわけじゃありませんし。とにかく理念として、頭・イメージが先行で家庭音楽というものをほめたたえ、推進しようという動きは一部にはありました。

  [2.2.3.  子ども文化]
 ところが、この家庭文化に実質をもたせようとしたのが、それとは少し離れる別の文脈からせりあがってきます。
 1909(明治42)年に設立される三越少年音楽隊は、少年が5〜10人が軍服のような小さなユニフォームを着て、軍楽隊・ブラスバンドのまねごとをするという楽隊です。これはイメージとして、「子ども文化」の音楽版という意味において家庭でありつつ、プラス、軍国的な・家夫長的な・男性的なイメージと結びついています。三越音楽隊の前身には、アコーディオンとか大太鼓などをたたく(今のの学芸会に出てくるような)子どもたち4・5人の少年楽隊(少女音楽隊もありましたが)が、明治20年代にできます。

  [2.2.4.  市中音楽隊]
 ちゃんとした編成で指導者がしっかりしてユニフォームを着た大人たちのブラスバンドが、そのころは(特に日露戦争のあとは)おおいにはやるのですね。大阪だと第四師団、東京では陸海軍軍楽隊がいちばん頂点にたつ官立の音楽隊なのですが、天王寺公園と日比谷の野外音楽堂で演奏会をやっています。それ以外にも、いろいろな店の広告などいろいろな機会に楽隊が活動しているわけです。軍楽隊を引退した人たちによる市民活動 civil service・商業活動としての市中音楽隊があったわけです。普通の楽隊から映画館で演奏するようになるという流れは、ジャズの方につながっていきます(*3)

  [2.2.5.  お伽歌劇]
 大好評をえた三越音楽隊に対抗して、三越のほぼ正面にあります白木屋(現東急百貨店日本橋店)が(<一五夜お月さん>という童謡をつくった)本居長世が中心になって、1912(明治45)年に「白木屋少女音楽隊」というのをつくります。これは、少年音楽隊の対抗馬としての少女でありますが、さっきからいっていた少女文化と重なるところがあります。
 最初に演奏されたのは「うかれ達磨」(吉村昌一作・本居作曲)・「羽子板」(本居作曲・構成)(*4)といった歌劇です。書かれた記録によりますと、着物を着た少女がだるまのまわりでお遊技をしたり、羽子板遊びをしながら歌を1曲歌うといった10〜15分のたわいのないものだったそうです。
 これはお正月の余興であったようです。今でも見当がつきますが、7・8階の催事場におめでたい赤白幕がめぐらされて、お正月大売り出しがおこなわれている。子どもが出るとなると親が必ず行きますし。
 そうしたところで少女が芸をする。しかも下品な、義太夫とか軽業士の少女など暗い過去を持った芸ではなくて、洋風のピアノを伴奏にした芸をする。そういう新しい家庭にふさわしい音楽が、明治45年=大正元年に始まるわけです。これは宝塚歌劇の元としていちばん近いところにあることだと思います。

  [2.2.6.  デパート文化]
 小林一三はたびたび「デパートメント方式の演劇を、歌劇を」といって、大きな劇場でなるべくたくさんの人に、家族ずれで安心して見に行けるものを、という意味で「デパート」という言葉を好んで使っています。そうした阪急百貨店の商法の原型のひとつが三越にあります。
 三越は、日本で最初の百貨店です。それまでにも店が寄りあってできているようなものとしては明治の中ごろから「勧工場」というものがあります。これは、勧業博覧会へ出品されたもののお下がりを展示して、今でいえばみやげ特売品売り場のような感じで、小売り店を集めたような場所です。百貨店というのは、企業として資本をかけて、それをひとつの建物に集約してしまう形態の商業です[吉見 1987:148-153]。
 大きな店に客を集める手段として、三越呉服店は、子どもに注目しました。大人だけがきているのでは、かつての呉服屋のレベルから抜けられません。児童博覧会や少女博覧会、大人を対象にした芸術博覧会とかフランス名画展だとかを開催しました。(今も日本のデパートは世界的にみれば異常なほどに文化のパトロネージになっているわけですが、客引きに芸術を使うというのは、日本では明治以来の考え方なわけですね。)三越は、そのほかに、ボーイさん(御用聞き)が、ホテルのボーイのような洋風のユニフォームを着て自転車で市内をかけめぐるといったふうに、視覚的にすぐれた広告・うまい商業戦略をとって、大きくなっています。
 阪急もそういうところがあります。文化の方からいっても、小林一三と岡田、つまり阪急と三越も比較してしかるべきだと思います。

2.3.  大劇場:帝劇の女優劇と浅草オペラ

  [2.3.1.  帝劇の女優劇]
 渋沢栄一が財界人からお金を集めて[1912 (明治44) 年3月に]つくった東京の帝国劇場が、小林一三にとって劇場経営の大きな目標だったと思います。帝劇と宝塚歌劇を比べて大きな共通点は、女優が出演する点です。明治の末から大正の初めにかけて、帝劇には「女優劇」というものがありました。
 現在のような女優全盛の時代から考えますと不思議ですが、女はそういった劇には出なかったんですね。歌舞伎は男ばかりでしたし、女芝居というのは「色物」だったわけです。浅草なんかでやっているようなストリップまがいの大衆的な(ある意味では俗悪な)ものを別にすれば、女が人前で芝居をするというのは、もってのほかだったわけです。ところが、明治の途中から川上音二郎に始まる新劇では、男女同権というヨーロッパの思想をくみ取るわけですから、女性も芝居に進出しなければならない、というモットーがありました。それが本当に実現されてくるのが、帝劇がやりました女優劇であります。
 「女優求む」という広告を新聞に出しましたが、最初は、そういうものに来るのは、ほかに仕事のない、まずしい、うらぶれた、かわいそうな女性が集まってくるだろうと新聞は初めはちゃかしていました。ところが、かなり良家の子女が集まってきたので、新聞は非常にあわてて、そんなはずはなかったのだがといいわけをしたりします。いい家庭の−−男爵や軍人の娘といったレベルの−−人たちが女優として養成されて、その中の選りすぐれた人が人気を得ていくわけです。帝劇の女優ではありませんが、松井須磨子(<カチューシャの唄>で有名になった)も同じ頃の女優で、帝劇女優を上回る大衆的な人気を得ていた人です。浅草オペラの女性歌手が人気を得る基礎をつくっているという点で、この女優劇というのは重要です。

  [2.3.2. 「清く正しく美しく」]
 ところで、女優劇というのは、「女優」というのがあまりいい印象を持たれていなかった。もともとの女役者の悪いイメージがつきまとっていて−−悪い男にたぶらかされているとか、劇場支配人にこきつかわれているなど、楽屋裏というのは非常に欲望うづまく夜の世界−−、女優劇には、○○という女優は△△という男優と駆け落ちしたとか、舞台監督の□□が、前の女優を捨てて新しい女優に走っているといったスキャンダルが絶えなかったわけです。
 しかし、宝塚歌劇にはそういったことが皆無なのですね。宝塚では始めから、女優ではなく生徒であると言って、現在までその信念がつらぬかれいます。

  「女優劇」マイナス「スキャンダル」

というのが宝塚の生徒の実態なのです。この「マイナス スキャンダル」というところが、宝塚の「清く正しく美しく」(その前に「朗らかに」というのがあったそうですが[阪田 1991:352])に対応しています。
 このことによって、宝塚がほかの演劇団と全然違うイメージをもったまま、現在にいたっているわけです。大正時代にそうしたイメージを小林一三がもたせようとしましたし、生徒さん側もがんばりました。(実際一件だけ、宝塚の生徒と先生ができてやめていってしまうというのがあったんですが、それ以外はありません。)宝塚の生徒というか役者に関しては、そうしたスキャンダルが[現在に至るまで]いっさいない。これも非常に特殊なところであります。
 それだけ「清く正しく美しく」が、外部の人間からもそれが守られ、それが内部でもそれを守る努力をし、マスコミがいっさいそれに対して批判を加えたりしないし、見てやろうとする「出歯亀」のような人も表れないし、あるいは表れたとしても表れる前に摘み取られてしまうのかもしれませんが、非常にある点ではうまくいっている、理念がうまく現実化しているわけです。その女優と生徒というのも、小林一三のことを考える上で、重要なポイントだと思います。

  [2.3.3. 益田太郎冠者]
 初期の帝劇女優劇には、益田太郎冠者という劇作家がおりました。小林より1才下だったと思いますが、彼には小林一三と似た点が多くあります。男爵になって、三井財閥系列のいろんな会社の重役をつとめます。20台半ばで洋行して(*5)、向こうでさんざん遊んでくるわけです。小林一三も初期は脚本を少女歌劇のために書いていますが、益田太郎冠者は、女優劇のほうの脚本家兼演劇プロデューサーであります。
 この太郎冠者という人物がおもしろいのは、劇作家としては小林一三よりもモダンであったということです。小林一三の脚本には、「日本武尊」や「竹取物語」といったおとぎ話や、古典を題材にしているものが多いのですが、太郎冠者は、洋行した先で見たビルボードショウやミュージカルショウなどを日本に翻案する名人で、ハイカラな人間がでてくる芝居を書いています。それから、高速度喜劇 High Speed Comedy というのを考案しまして、ダニーケイのように早口で3〜5分間に200語とかをしゃべってしまう芝居を書いたり、浅草オペラにもかなり影響を与えています。高木史朗の『レビューの王様』によりますと、浅草オペラ自体が・全体が益田太郎冠者のやりたかったことのファンタジーみたいなものだ、というようなことを書いていますが[高木 1983:122]、それだけ、特に東京・関東圏では影響力の強かった劇作家です。
 「カフエーの夜」という明治42・3年に初演された芝居がありまして、その中に、大正の頃に愛唱されました益田作詞作曲の<コロッケーの唄>がありました(*6)。「ワイフ貰って、嬉しかったが、いつも出て来るおかずがコロッケー」「今日もコロッケ、明日もコロッケ」、これが帝都をかけめぐったそうであります。「カフエーの夜」は、浅草オペラの中でバリエーションがつくられていって、特に日本人のつくったオペラとして影響力を持っていくわけです。

 小林一三は、郊外・少女家庭文化・大劇場という3つの軸を持って、現在の少女歌劇をつくりあげたんだととぼくは思っています。


3.  お伽歌劇

3.1.  お伽歌劇というジャンル

  [3.1.1.  「ドンブラコ」お伽歌劇のはじめ]
 宝塚のいちばんはじめの演目は、「ドンブラコ」であったことは、みなさんもご存知かと思います。これは、桃太郎の話であります。
 作曲している北村季晴[1872-1931]は、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)の先生でありましたが、反骨の師でありまして、芸大のヨーロッパ中心主義に対立して、途中で芸大をやめてしまいます。そして、日本人の歌える曲・オペラをつくらないといけないといって、いろいろな民衆的な歌をつくっている人です。
 「ドンブラコ」は、初演が 1912(明治45=大正元) 年、東京の歌舞伎座で、演奏会形式で初演されました。その翌年にはSP5枚組でレコーディングされています。池田文庫にあった楽譜は明治45年3月に出版されています。これを見ますと、北村のオリジナルのほかに途中に<君の代><木遣り><まつりばやし><えんやらや><かぞえうた>など、子どもの歌がはいっているようです。
 これは、15分ぐらいの作品で、その大正の頃の雑誌を読むといろんなところで児童大会(子どもの集まった会)などでは人気があったそうで、いちばん最後に「ドンブラコ」を歌って解散したという記事がいくつかあります。それだけ人気があったわけです。おそらく、この成功から、お伽歌劇というジャンルがクローズアップされるわけです。

  [3.1.2.  童謡との比較で考える]
 お伽歌劇というのは、巖谷小波[1870-1933]の「お伽噺」の歌劇版です。したがって、初期の宝塚には、浦島太郎・かぐや姫・かちかち山などの翻案がよくあります。そのほかにお伽歌劇は、たくさんつくられますが、現在の音楽史ではほとんど無視されています。そのわけは簡単で、お伽歌劇は童謡によってつぶされたからです。
 現在まで残っているのは童謡のほうだけですが、お伽歌劇と童謡をペアで考えると、大正時代の子ども用洋楽というものがよくわかります。大正7年にできました鈴木三重吉の『赤い鳥』以降、中山晋平・本居長世・梁田貞・大中寅二などの有名な作曲家が作曲し、北原白秋・野口雨情・のちには西条八十という有名な作家が歌詞をつくり、子どもたちに童心主義的な童謡をつくるわけです。

 童謡については、白秋などが「子どもに押しつけるものではなくて、子どもがみずから歌うものである」などと優等生的な理論を展開しているのですが、お伽歌劇のほうには、理論的なバックアップがなかった。  また、童謡のほうは、一流の人がやったおかげで現在までかなりの数の童謡が残り、日本の子どもの児童文化の遺産としてはっきり認知されているわけですが、お伽歌劇のほうには、そういったスタンダードになる曲がなかったので、一過性で消えていってしまったわけです。
 また童謡は、しいていうならば、子どもたちが舞台の上できちんと歌うリート(独唱)です(合唱する場合もありますが)。童謡歌手というものがあらわれて、子どもたちはそれを聴いているという現在でいうリートのコンサートのような形式を取っています。それに対してお伽歌劇のほうは、良くいえばオペラですが、実際にはオペレッタかもっと下の学芸会のようなもので、音楽のほかにしぐさがあったり、純音楽的でない要素が山ほどあるわけで、その分、「不純」で価値が低い。 (現在でもコンサートホールできちんとやるもののほうが、オペラやオペレッタのように見て楽しめるものよりも評価されるのとかなり通じるものがあるんですね。)童謡は、芸術というものに価値をおくかぎり高く評価されるわけですが、お伽歌劇のほうは「楽しめれば良い」というものであるから、そのまま終わってしまったわけですね。

 だいたい昭和のはじめには、だんだん下火になっていきます。

3.2.  初期宝塚歌劇におけるお伽歌劇

 宝塚が始まった頃は、お伽歌劇を高級にしていこうというのが小林一三の考えだったと思います。あれではいけない、もっと上等なものを与えなければいけないとは、きっと思っていたと思うのですが、なかなかそういうふうになるまでには時間がかかっています。
 はじめのうちは、昔の日本の寄席の5番狂言や浅草オペラなどと同じ5本立てくらいで、どれに重点があるのかわからないものです。おそらく、いちばん最後にあるのがいちばん重いのでしょうが、それでも 20 分ぐらいで、台本を見る限り、 「モン・パリ」「ベルばら」のように1・2時間もかかるようなものはありませんでした。
 宝塚の少女達がだんだん大人になりまして、お伽噺には満足できなくなって大人の観賞にたえられるものを始めます。お伽歌劇自身は15分ぐらいなので、現在でいえば前奏曲にあたる部分として、また新しい生徒さんの練習台といった意味も込めて昭和にはいってもやっていますが、大正10年3月から、お伽歌劇部と本格歌劇部の2部にわけて、本格歌劇に力をそそぎます[市橋 1964a:127, 1964b:14]。

3.3.  初期宝塚の音

 お伽歌劇のころの音が「宝塚大全集」(コロムビア)という10枚組のレコードとして残っています。それを聴いてください。
 最初、テープの関係でお伽歌劇のなかでいちばん人気があった「茶目子の一日」(*7)という大正8年の歌を聴いてください。これは、ぼくの聴いたかぎりの感じでは、宝塚のお伽歌劇よりも、音楽のメリハリがあって、優れていると思うのですね。作曲者である佐々紅華(<君恋し>1928 の作曲者)は、あるレコード会社と契約していて、毎月2・3本お伽歌劇のレコードを出していました。今日の録音は、その中の1枚ですので、浅草で特にやられたわけではありません。この大正15年頃の録音では、二村貞一(日本の最初のジャズシンガー)が、お伽歌劇を歌っています。

<<音源1:「茶目子の一日」>>
大正8年録音

<<音源2:「音楽カフェー」>>
安藤弘作・作曲 大正4年録音(*8)

 歌詞は、ずっと「ドレミファ」ですが、聴こえにくかった最後は次のように歌っています。「コニャックウォッカにペパミント プラトにリキュールアブサント ボルボにセリーにウイスキー エーリにカフェインチョコレート」これらが当時の音楽カフェであつかったものですね。カフェといっても、アルコールがでるものも含めて大正4年には「カフェー」と呼んでいたわけです。カフェー文化というのが海外・欧米から輸入されてきてわけですが、その中には、現在言うところの「バー」に近く、現在のようにコーヒーを飲むだけのところとは違うわけです。

<<音源3:「桃色鸚鵡」>>
小林一三作・原田潤作曲(*9)

 「わたしの好きな若様は」のところが長調で、 「わたしの嫌いな若様は」のところで短調に転調しています。
 このメロディーはヴェルディ Verdi の「椿姫」そのものですね。
 道頓堀・神戸・名古屋・大阪と巡業しているそうです。

3.4.  文化輸入の際に抜け落ちたもの

 歌詞などの詳しい分析をしていないのですが、健全路線というのは、はじめのことからありまして、今の「私の好きな若様は」というのにしましても、簡単にいってしまえば、「異性へのあこがれ」というところでだいたい終わるものなのですね。それから先の、複雑な煩悶といったところは無視されています。そういうものがあると、国民劇として子どもには見せられないと、小林一三は判断したわけでしょう。
 洋風文化を輸入する際に、どれを取ってどれを捨てるかというのは、宝塚に限らず、食・文学・芸術・法律・経済などすべてにいえる問題ですね。法律でも、プロシア憲法のこういう部分はとったけれども、ここは捨てたといったことに関して、法律の研究家は今でも議論しているわけです。宝塚の研究でもやはり、そうした議論をしなくてはいけない。もともとは切り離せないはずだったエレメントが、こっちに はいったときに分離して うわずみ/したずみ:そのどちらかだけをとって、片方を捨てていったわけです。ヴェルディのオペラでは、父子の対立ですとか、「椿姫」では、ある私生児が、お金持ちにいって日陰ものの娼婦になるか、若いけれども素晴らしい男にいくか、といった煩悶のなかで彼は生きて、ヴェルディのオペラでは人間関係の対立などが強くでるわけですね。今のは曲を盗んできただけですから捨てた部分も多いのですが、ヨーロッパのオペラの人間関係から宝塚が得てきたものはなにもないといっていいと思いますね。
 そういうところを、日本的に歪めてさらに強調させていくのが、浅草オペラでした。その演目は、一貫した筋をもっているというよりは、一日に4・5本どんどん早変わりで見せていくような、いいかげんな芝居でありました。大人向けということで、恋愛がずいぶんとりあげられています(もちろん、ヨーロッパ的な意味での恋愛ということではないんでしょうけれども)。宝塚の中にそういったセックスの部分とか、欲望という次元が漂白されていくのは(みなさんは感じてはいるのでしょうけれども)外部の目から分析をしてもられるといいのではと思っています。
 大正の後半になりますと、『歌劇』ではダンス・ジャズという言葉が増えまして、お伽歌劇は是か否か、このまま存続すべきかというような議論がなされたりしています。


4. 「モン・パリ」

4.1.  モデルになったもの

  [4.1.1.  岸田辰彌の旅行記という形態]
 岸田辰彌は、1919(大正8)年から劇作をしていて、初期の宝塚の非常に重要な作家です。[『歌劇』の]読者の会などで自分で歌を歌ったりするなど多才な人です。
 「モン・パリ」は、岸田辰彌が海外へ行った時の話がモデルになっています。脚本では、串田福太郎(岸田辰彌のこと)を主人公に、途中、支那=中国やセイロン=スリランカ・エジプトをめぐって、パリのオペラ座やカジノ=ド=パリのショウでフィナーレです。
 これは、旅行記であることが重要であります。これまでは、次々の場面のかわる旅行記というのはなかったわけですね。

  [4.1.2.  享楽じみたショウ]
 岸田辰彌が「モン・パリ」をつくる発想の元になったのは、フランスのミュージックホール・キャバレー:フォーリー=ベルジェール・カジノ=ド=パリという2大ホールです。それを見て、そこでのショウをなんとか宝塚風にしたいと岸田は思ったわけです。フォーリー=ベルジェールというのがどういうところかというのを、昭和4年の 『夜のロンドン・パリ・ニューヨーク』という本の花柳界という欄から引用します。
「コンサートの筆頭は、リヒテル街のフォリバゼアである。開演は、8時半だが、予約申し込みしていなければ、早く行かないと席がない。定食もできるが高いから、一品料理または適当の飲料を注文しながら、数十人の天女のごとき美しい婦人の舞踊を見、あるいは血を沸かすような音楽を聴くが良かろう。元来フォリは、気違い・狂喜じみたことを意味し、また、バゼアは、情婦を意味するのだ。したがって、ここフォリバゼアの名は、よくこの音楽場の気分を表す文字であろうと思う。また、クリシー街のカジノドパリも、フォリバゼアと同種の享楽場であるが、いろいろな意味からして、前者より一層の狂態を演じている。」さきほど「ぬいた」という話をしましたが、こうした享楽の場が、宝塚の場に持ち込まれる際に、狂態じみたところはカットいたしまして、ショウのおもしろいところだけを、子どもにも見せられるかたちで拾ってくるわけです。

4.2.  文化史的な重要性

  [4.2.1.  劇構造の重層化]
 「モン・パリ」は、語り手である串田福太郎を主人公にしており、「実際にこれまで、自分はパリにいってきたが、そのみやげ話を諸君に聴かせよう」というふうにして始まります。つまり、全体が枠になっており、枠物語、舞台の中の舞台というような形式でおこなわれているわけです。したがって、ときどき福太郎がでてきて話をしたりとか、福太郎が夢の中で人魚にさらわれそうになるシーンがあって、夢の中の福太郎・旅をしている福太郎・それから語り手の福太郎と、3人の福太郎がいりまじったり、最後に3人が出会ってしまったりという不思議なおもしろい構造になっているわけです。

  [4.2.2.  階段式フィナーレの初め]
 カジノ=ド=パリのショウの場面でのフィナーレは(小規模ながら)階段が使われた最初で、これで成功をおさめたおかげで現在までつづいているという重要な場面です。

4.3.  エキゾチズム

  [4.3.1.  『歌劇』にみられる観客への浸透]
 大正の末には<エキゾチズム>ということは、ずいぶんはやっていたようです。大正11年にスペインもののダンスがあったり、大正13年の「オリエンタルダンス」[未確認]では、エジプト風のだらっとした服を着て、見なれぬ動作をするわけです。宝塚の観客は、「ああ、エジプトって、インドってこういうところか」というふうに夢を見たと思うんです。
 そういうのがでると、和歌・俳句・詩・川柳・歌謡などの読者の欄に掲載される中にも、自分が劇場で観たものが歌詞になってでてきてしまう。それがおもしろいですね。たとえば、スフィンクスをうたってしまうとか、「シャクンタラ姫」 [1922(T11).5.1-]のあとにはすぐ、「おお、わがシャクンターラよ」とかね。すぐに詩ができて、「ああ、さびしの君は今いずこ」とかね。1923 (大正12)年のファンの歌詞を引用しますと、
「みはるかす メソポタミヤの 砂の地よ
 流るる月の 光は青き」
こういう風にして、砂漠を見たことのない人が、宝塚によってメソポタミヤの月を思い出すことができたわけです。
 こういったイメージは、1922(大正11)年の童謡<月の砂漠>にもあります。この曲は童謡の中でも非常に大きな成功をおさめていますので、この時期から日本人は、砂漠に対して「オアシス・ヤシの木・砂漠・情熱の恋」といったものがイメージとしてわくようになった。それまでは砂漠というものは何もなかったのですね。のちにバレンチノという役者があらわれて映画の中で同じことをするわけですが、大正の末に宝塚はすでにメソポタミヤまで旅行を進めていたわけです。

  [4.3.2.  手が届くエキゾチズム]
 大正時代のエキゾチズムでは、海外の自分には関係のない世界の話だった。ところが、「モン・パリ」では観客の身近な存在である(でぶっちょで、ああいう顔の人でとみんなが知っている)岸田が旅を話して聞かせるてくれます。エキゾチズムの対象である外国が、自分が本当に体験しうるようなレベルに近づいてきているんですね。昭和の始めにいろいろな交通機関が発達したこと、情報機関が発達したことで、エキゾチズムの意味が少しづつ変わってきている。そうした重要な時期に「モン・パリ」はつくられていると思うんです。

4.4.  音楽におけるエキゾチズム

  [4.4.1.  直輸入された音楽]
 大震災前の大正時代の場合には、音楽があまりエキゾチックではなかったようです。衣装などは写真を見てできるのだけれども、音楽は、どう表現していいかよくわからなかった。ところが「モン・パリ」の場合には、岸田辰彌がカジノ=ド=パリなどで聴いてきたリズミカルな音楽を組み合わせ、当時でいうジャズバンドのイメージ−−サクソフォーンやトランペット−−に編成を変えた。これが「モン・パリ」の大きな成功の理由だと思うんです。題材だけではなく、いろいろなところで、当時の人が新しいと感じていることを集約したような舞台だったからです。

  [4.4.2.  実際の音を聴く]

<<音源4:「モン・パリ」>>
<口上>「これはこれは皆様方、永々の御無沙汰、何とも申分けない次第で御座いました……欧米先進国のならいに範をとり、幕なし大車輪にて御覧に入れますれば…」というわけで、(音楽は)非常にモダンなわけですが、口上自体は、あまりモダンではないわけですね。
<和田岬での見送り>
<上海>
  全部ききますか? 7・8分かかるかなあ ……もうしゃべるのやめた(笑)。
笑い方は、今も変わらないですね。どうしてなんでしょう。
<麻雀の唄>
<あったかいコーヒーおもしろい夕刊>マルセイユの朝の停車場
:チャップリン「ライムライト」でつかわれていた歌です。
<汽車のダンス>
ここのラインダンスは、当時センセーションに受け入れられました。
  [4.4.3.  高い演奏技術]
 いちばん<汽車のダンス>のところでは特にそうなのですが、当時いうジャズバンドとしても非常にレベルが高い演奏だと思うんです。リズム感がよく、汽車が走っている感じがでています。ドラムスもブラシでたたいているのですが、そういった技術も(おそらく岸田によって)むこうから取り入れています。

  [4.4.4.  メロディーのオリジナルは何か]
外国の曲をそのまま使って歌詞をまったく変えて使うというのは、(今もそうかもしれませんが)この頃はまったく自由にやっています。しかし、最初の別れの曲でもそうなのですが、たとえば、<麻雀の唄>などの中国風のメロディーがどこからきているのかわかりません。おそらく、むこうのその頃のオペレッタやショウの中国風のテーマであって、芝居や大衆演劇のどこかから楽譜を取ってきているでしょう。(知っている人があったら、ぜひとも聞きたいですね)。つい数年前までは、さっきかけたような曲をつくっていた人間が急にこんなハイカラな曲が作れるわけはないので宝塚で作曲されたとは思えません。しかし、その楽譜の入手経路などは、まったくわかりません。こうした作者不詳の曲の出典がわかるようになれば、当時の民間レベルでの国際交流というのがわかると思います。

4.5.  パノラマとしてのレビュー

  [4.5.1.  パノラマ]
 「モン・パリ」では、上海・セイロンなどそれぞれの場面が独立して、物語的なつながりをかなり無視しています。これがレビューだと岸田は言っています。パリのショウでの、スピーディーにどんどん場面転換がおこなわれていくスピード感のある舞台を日本でもぜひとも実現したいものだといっているわけなんですね。
 こういうふうに、ある物事を深くみないで表面で紙芝居のように見ていく見方を、美術・写真のほうでは、パノラマと言います。パノラマというのは、もともとは、遠くの景色や風景を近くに見れるという、19世紀の万国博覧会などで非常に人気をとった見せ物です。ある本(*10)では次のようにいっています。昔の馬車の時代には人々は風景の中にいて、風景と一緒に動いていたものが、鉄道による旅行が普及したことによって人々は風景から遮断され、むこうがわの風景が通り過ぎるのを見るだけになってしまった。鉄道によってそういった視覚体験が増えていったと。映画もたぶんそういったもののひとつでしょうし、レビューという上演形態もそうです。それまでの物語の主人公にのめり込んで、それと自己同一化したり、主人公の悩みを共有するといった(ある意味ではまじめな)芝居ではなくて、自分とは違うところでパノラマのように次から次へと与えられる風景を見ていくスタイルになっているわけです。

  [4.5.2.  レビューの一般化・安易化]
 場面を構成する必要はあるけれども、物語=ドラマはいらない。ということで、こうした傾向は、どんどん安易な方向にいくわけです。「モン・パリ」「パリゼット」(白井鐵蔵の成功作)以降、日本中にレビューというものがあらわれて、ずいぶんいかがわしいものもあったわけですが、宝塚でやったこと(革命的であったと思うのですが)それを安易に使っていくと、どんどん下のほうにいってしまう、これは大衆文化の特徴ですね。
 「モン・パリ」によってレビューという言葉は市民権をえます。これの成功以降急に、ずいぶんすたれていた浅草オペラが浅草レビューとして、昭和4年ぐらいから復活しますし、それをうけて、新宿ムーランルージュというレビューですとか、大阪でも道頓堀のほうにできるし、松竹のほうでもレビューという名前を冠して、独自のスペクタクルを繰り広げるわけです。昭和の初期の大衆文化を考える上で、レビューというのは忘れられないし、レビューの原点にある「モン・パリ」というのを検討していくことは大事だと思うのです。


5.  まとめ

5.1.  宝塚歌劇の原点

 宝塚歌劇では、小林一三がもっていた「大正教養主義」−−大衆の中流階級をもっと育成していこう、中流のための文化をつくっていこうというという理念−−が、現在まで踏襲されていて、うまく成功しているんだと思います。竹久夢二に代表されるような大正時代の少女の文化・イメージを温存して、音楽だけはジャズになり、最近ではロックになりと、いろんなものを取り入れています。エキゾチズムにしても、「モン・パリ」が提出したようなエキゾチズムを現在でもいろいろな形で提供しているわけです。舞台かわれど宝塚は同じ……これはファンにとってはたまらなくすばらしいことでしょうし、ファンでない人にとっては全然進歩がないということでしょうけれども、良きにつけ悪しきにつけ宝塚のドラマの作り方 (ドラマトゥルギー)を確立したのが「モン・パリ」であり、それを準備していたお伽歌劇であったというのが結論であります。

5.2.  小林一三のいう「国民劇」

 もうひとこと言い忘れていました。小林一三は、家庭本位の国民劇ということを大正半ばにあちこちで言っております。この「国民劇」は、実際には、大衆劇であったわけです。「大衆」という言葉が本当に人口に膾炙され、「最近のはやりの言葉でいえば”大衆○○”となるが」といった記事が新聞や音楽雑誌にあるのは、昭和にはいってからです。「民衆」という言葉は、大正4・5年の文芸論争から「民衆芸術」などというふうに使われ始めたのですが、「民衆」と呼ばれていたものが昭和にはいってなぜか別の力をもって「大衆」と呼ばれるようになってきた。
 「国民」という言葉が、明治的な意味に戻るのは、昭和12・3年の頃からです。その頃からの『歌劇』には、「国民劇の創生を」というタイトルの記事があります。タイトルだけ見ると小林一三と同じようですが、国民一致団結して国のための日本国民の健全な娯楽を提供する場であって欲しいという内容になっています。<大衆>という意味から、小林一三が使う前の時代の「国民」という言葉に戻って、宝塚は、戦争時代を迎えるわけです。そのころの『歌劇』は、あわれでもありますし、非常におもしろいところでもあります。廃刊になるいちばん最後の昭和15年10月号は「航空特集号」といいまして、日本軍が航空日というのを制定したのを受けて、最初のページが飛行機で、その次に航空帽をかぶる○○さん、防毒マスクをかぶる△△さんなどもありますし、航空中佐のインタビューや国防婦人会などと、軍事色一色になって『歌劇』が終わります。宝塚自身は、1944 (昭和19)年までやっているわけです。


このページは、細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)の講演部分でした。
細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)
[目次] [講演概略]
[はじめに] [小林一三と明治洋風文化] [お伽歌劇] [「モン・パリ」] [まとめ]
[] [参考文献]

Early Takarazuka [speech]
written by MAKITA Van at 5. Fev. 1996
original at http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vmakita/ezuka-speech.html