[1.1.2. ファンでない立場からの文化史的な研究]
しかし、宝塚についてのことは、ほとんどファンである「中にいる」人が語っているので、いかに宝塚が素晴らしいか、小林一三が偉大であったかを内側からほめたたえるような話がほとんどです。また、出版されている本のほとんどが、スター本かそれに類する話、またその周辺にあってスターのエピソードを語るものでし。ところが、宝塚を演劇・オペラ・音楽などといった広い文化史のなかで見ている本があまり多くない。そこで、ぼくのような決してファンでない人間が宝塚について語る場所がまだあるのではないかと思って、連載で、宝塚のことと「モン・パリ」のことを書きました[細川 1991b,1991c]。今日の話も、ファンの人からみるとつまらないものかもしれませんが、ファンでない人が宝塚にアプローチする際にヒントになればと思って話をしたいと思います。
[1.1.3. 関西での研究への期待]
特に、ここ数日、池田文庫(*2)に通って、戦前の宝塚についての文献を読んでいるのですが、みなさんのようにすぐにその気になればいける人に宝塚に関心を持ってもらえれば、ファンでない立場からの批判・本当に身のある研究ができるのではないかと思います。その助けになればと思って、今日はやるわけです。大正から昭和の始めの文化について研究するならば、『歌劇』が全巻そろっていますから、かよってみることをおすすめします。
[1.2.2. 多様な内容の混在]
現在『歌劇』という雑誌がどういったものであるか、皆さんは読んだことがおありでしょうか。最初にスターのグラビアがあって、それから生徒さんのインタビューや対談、公演の時の失敗談などがあって、それからファンの声がちょっとある。そういったファンを中心につくられた雑誌です。
しかし初期の『歌劇』は、小林一三が宝塚歌劇をつくるにあたっての信念を宣伝する場所でありました。彼の歌劇論(のちに『日本歌劇概論』になる記事の初出のほとんど)が載っていて、大正時代の日本の、特に関西の演劇・音楽・舞踊について調べるには欠かすことのできない雑誌であります。
それと、前衛的な演劇・音楽の紹介の記事が同居しています。たとえば、ロシア革命のあとにロシア歌劇団の記事があったり、亡命して関西にいた音楽家(宝塚で指揮したことがあった)にロシアの最新の音楽について講演させたり、プロレタリアートの労農楽団は以後どうなるであろうかというアクチュアルな演劇のテーマを盛り込んであったり、昭和の始めになりますと、シェーンベルグなど、音楽の最先端にあたる人たちの紹介があったり、ラベル(現役の作曲家)やドビュッシー(だいぶん前に亡くなっていますが)など芸術方面の最新作も紹介しています。そういった新しい芸術運動の窓であったわけです。
それと同時に、ファンの声・「宝塚専属」の評論家の宝塚賛美の声が同時にはいっているわけですね。今もほとんど変わりない少女趣味の結晶といったファンの声といったものが毎月出ています。ところが、これだけ読者の声を扱っている雑誌は、特に音楽に関してはほかにはありません。明治から大正にかけて、ほとんどの音楽雑誌は、啓蒙という形で専門の人が書いてるだけで、読者がみてどう思ったという記事はないわけです。そういう点で『歌劇』という雑誌はユニークだと思います。おそらく他の大衆文化の雑誌(映画雑誌とか演劇雑誌など)と比べたらいいのかもしれません。
現在でもある「高声低声」という投書欄では、小林一三にたてつく、こんなのじゃいけない、といった投書が多くとりあげられています。また、どうやら小林一三自身が筆名で書いているものもあって、それに対して、ほかの方が「おそらく一三さんの筆によるものかと思いますが」といって批判しているといった、非常に手の込んだ投稿が署名入りで載っています。
そのように、できた当時からファンを大事にすると同時に、ファンにこういうものを与えたいという理念があって、ファンとつくる側との相互的な関係がうまくいっていた例だと思います。ですから、今の『歌劇』を見て、昔もああやったろうと思ってうっちゃっておくと、これは大きなまちがいです。
[2.2.2. 少女文化 洋風住宅]
家庭音楽というのは、根本的に少女の音楽であるわけです。家庭における子どもの存在価値が重要視されていますが、その中でも、女の子が何をしたらいいのか、女の子にこういうものを与えたいということがしきりに説かれています。そういう場合には、男の子は無視されています。
当時の音楽雑誌に「家庭音楽小説」というものがあって、「ミス・ジェイン」が、娘の「ケイト」にピアノを教えていて、カーテンに風がそよいでいるという光景が描写されています。洋風住宅と、ピアノをひいている少女というものが結びついているわけですね。畳などではダメで、イメージの中では完全に洋風住宅であります。しかし、実際に洋風住宅である「文化住宅」が日本でも建ち始めるのは大正に入ってからです。明治40年頃から、洋風の家と少女が密接な関係を持っていました。
しかし実際には、家庭音楽というものをどうしていいかわからないわけです。それほどピアノがひける人間が多いわけじゃありませんし。とにかく理念として、頭・イメージが先行で家庭音楽というものをほめたたえ、推進しようという動きは一部にはありました。
[2.2.3. 子ども文化]
ところが、この家庭文化に実質をもたせようとしたのが、それとは少し離れる別の文脈からせりあがってきます。
1909(明治42)年に設立される三越少年音楽隊は、少年が5〜10人が軍服のような小さなユニフォームを着て、軍楽隊・ブラスバンドのまねごとをするという楽隊です。これはイメージとして、「子ども文化」の音楽版という意味において家庭でありつつ、プラス、軍国的な・家夫長的な・男性的なイメージと結びついています。三越音楽隊の前身には、アコーディオンとか大太鼓などをたたく(今のの学芸会に出てくるような)子どもたち4・5人の少年楽隊(少女音楽隊もありましたが)が、明治20年代にできます。
[2.2.4. 市中音楽隊]
ちゃんとした編成で指導者がしっかりしてユニフォームを着た大人たちのブラスバンドが、そのころは(特に日露戦争のあとは)おおいにはやるのですね。大阪だと第四師団、東京では陸海軍軍楽隊がいちばん頂点にたつ官立の音楽隊なのですが、天王寺公園と日比谷の野外音楽堂で演奏会をやっています。それ以外にも、いろいろな店の広告などいろいろな機会に楽隊が活動しているわけです。軍楽隊を引退した人たちによる市民活動 civil service・商業活動としての市中音楽隊があったわけです。普通の楽隊から映画館で演奏するようになるという流れは、ジャズの方につながっていきます(*3)。
[2.2.5. お伽歌劇]
大好評をえた三越音楽隊に対抗して、三越のほぼ正面にあります白木屋(現東急百貨店日本橋店)が(<一五夜お月さん>という童謡をつくった)本居長世が中心になって、1912(明治45)年に「白木屋少女音楽隊」というのをつくります。これは、少年音楽隊の対抗馬としての少女でありますが、さっきからいっていた少女文化と重なるところがあります。
最初に演奏されたのは「うかれ達磨」(吉村昌一作・本居作曲)・「羽子板」(本居作曲・構成)(*4)といった歌劇です。書かれた記録によりますと、着物を着た少女がだるまのまわりでお遊技をしたり、羽子板遊びをしながら歌を1曲歌うといった10〜15分のたわいのないものだったそうです。
これはお正月の余興であったようです。今でも見当がつきますが、7・8階の催事場におめでたい赤白幕がめぐらされて、お正月大売り出しがおこなわれている。子どもが出るとなると親が必ず行きますし。
そうしたところで少女が芸をする。しかも下品な、義太夫とか軽業士の少女など暗い過去を持った芸ではなくて、洋風のピアノを伴奏にした芸をする。そういう新しい家庭にふさわしい音楽が、明治45年=大正元年に始まるわけです。これは宝塚歌劇の元としていちばん近いところにあることだと思います。
[2.2.6. デパート文化]
小林一三はたびたび「デパートメント方式の演劇を、歌劇を」といって、大きな劇場でなるべくたくさんの人に、家族ずれで安心して見に行けるものを、という意味で「デパート」という言葉を好んで使っています。そうした阪急百貨店の商法の原型のひとつが三越にあります。
三越は、日本で最初の百貨店です。それまでにも店が寄りあってできているようなものとしては明治の中ごろから「勧工場」というものがあります。これは、勧業博覧会へ出品されたもののお下がりを展示して、今でいえばみやげ特売品売り場のような感じで、小売り店を集めたような場所です。百貨店というのは、企業として資本をかけて、それをひとつの建物に集約してしまう形態の商業です[吉見 1987:148-153]。
大きな店に客を集める手段として、三越呉服店は、子どもに注目しました。大人だけがきているのでは、かつての呉服屋のレベルから抜けられません。児童博覧会や少女博覧会、大人を対象にした芸術博覧会とかフランス名画展だとかを開催しました。(今も日本のデパートは世界的にみれば異常なほどに文化のパトロネージになっているわけですが、客引きに芸術を使うというのは、日本では明治以来の考え方なわけですね。)三越は、そのほかに、ボーイさん(御用聞き)が、ホテルのボーイのような洋風のユニフォームを着て自転車で市内をかけめぐるといったふうに、視覚的にすぐれた広告・うまい商業戦略をとって、大きくなっています。
阪急もそういうところがあります。文化の方からいっても、小林一三と岡田、つまり阪急と三越も比較してしかるべきだと思います。
[2.3.2. 「清く正しく美しく」]
ところで、女優劇というのは、「女優」というのがあまりいい印象を持たれていなかった。もともとの女役者の悪いイメージがつきまとっていて−−悪い男にたぶらかされているとか、劇場支配人にこきつかわれているなど、楽屋裏というのは非常に欲望うづまく夜の世界−−、女優劇には、○○という女優は△△という男優と駆け落ちしたとか、舞台監督の□□が、前の女優を捨てて新しい女優に走っているといったスキャンダルが絶えなかったわけです。
しかし、宝塚歌劇にはそういったことが皆無なのですね。宝塚では始めから、女優ではなく生徒であると言って、現在までその信念がつらぬかれいます。
「女優劇」マイナス「スキャンダル」
というのが宝塚の生徒の実態なのです。この「マイナス スキャンダル」というところが、宝塚の「清く正しく美しく」(その前に「朗らかに」というのがあったそうですが[阪田 1991:352])に対応しています。
このことによって、宝塚がほかの演劇団と全然違うイメージをもったまま、現在にいたっているわけです。大正時代にそうしたイメージを小林一三がもたせようとしましたし、生徒さん側もがんばりました。(実際一件だけ、宝塚の生徒と先生ができてやめていってしまうというのがあったんですが、それ以外はありません。)宝塚の生徒というか役者に関しては、そうしたスキャンダルが[現在に至るまで]いっさいない。これも非常に特殊なところであります。
それだけ「清く正しく美しく」が、外部の人間からもそれが守られ、それが内部でもそれを守る努力をし、マスコミがいっさいそれに対して批判を加えたりしないし、見てやろうとする「出歯亀」のような人も表れないし、あるいは表れたとしても表れる前に摘み取られてしまうのかもしれませんが、非常にある点ではうまくいっている、理念がうまく現実化しているわけです。その女優と生徒というのも、小林一三のことを考える上で、重要なポイントだと思います。
[2.3.3. 益田太郎冠者]
初期の帝劇女優劇には、益田太郎冠者という劇作家がおりました。小林より1才下だったと思いますが、彼には小林一三と似た点が多くあります。男爵になって、三井財閥系列のいろんな会社の重役をつとめます。20台半ばで洋行して(*5)、向こうでさんざん遊んでくるわけです。小林一三も初期は脚本を少女歌劇のために書いていますが、益田太郎冠者は、女優劇のほうの脚本家兼演劇プロデューサーであります。
この太郎冠者という人物がおもしろいのは、劇作家としては小林一三よりもモダンであったということです。小林一三の脚本には、「日本武尊」や「竹取物語」といったおとぎ話や、古典を題材にしているものが多いのですが、太郎冠者は、洋行した先で見たビルボードショウやミュージカルショウなどを日本に翻案する名人で、ハイカラな人間がでてくる芝居を書いています。それから、高速度喜劇 High Speed Comedy というのを考案しまして、ダニーケイのように早口で3〜5分間に200語とかをしゃべってしまう芝居を書いたり、浅草オペラにもかなり影響を与えています。高木史朗の『レビューの王様』によりますと、浅草オペラ自体が・全体が益田太郎冠者のやりたかったことのファンタジーみたいなものだ、というようなことを書いていますが[高木 1983:122]、それだけ、特に東京・関東圏では影響力の強かった劇作家です。
「カフエーの夜」という明治42・3年に初演された芝居がありまして、その中に、大正の頃に愛唱されました益田作詞作曲の<コロッケーの唄>がありました(*6)。「ワイフ貰って、嬉しかったが、いつも出て来るおかずがコロッケー」「今日もコロッケ、明日もコロッケ」、これが帝都をかけめぐったそうであります。「カフエーの夜」は、浅草オペラの中でバリエーションがつくられていって、特に日本人のつくったオペラとして影響力を持っていくわけです。
小林一三は、郊外・少女家庭文化・大劇場という3つの軸を持って、現在の少女歌劇をつくりあげたんだととぼくは思っています。
[3.1.2. 童謡との比較で考える]
お伽歌劇というのは、巖谷小波[1870-1933]の「お伽噺」の歌劇版です。したがって、初期の宝塚には、浦島太郎・かぐや姫・かちかち山などの翻案がよくあります。そのほかにお伽歌劇は、たくさんつくられますが、現在の音楽史ではほとんど無視されています。そのわけは簡単で、お伽歌劇は童謡によってつぶされたからです。
現在まで残っているのは童謡のほうだけですが、お伽歌劇と童謡をペアで考えると、大正時代の子ども用洋楽というものがよくわかります。大正7年にできました鈴木三重吉の『赤い鳥』以降、中山晋平・本居長世・梁田貞・大中寅二などの有名な作曲家が作曲し、北原白秋・野口雨情・のちには西条八十という有名な作家が歌詞をつくり、子どもたちに童心主義的な童謡をつくるわけです。
童謡については、白秋などが「子どもに押しつけるものではなくて、子どもがみずから歌うものである」などと優等生的な理論を展開しているのですが、お伽歌劇のほうには、理論的なバックアップがなかった。
また、童謡のほうは、一流の人がやったおかげで現在までかなりの数の童謡が残り、日本の子どもの児童文化の遺産としてはっきり認知されているわけですが、お伽歌劇のほうには、そういったスタンダードになる曲がなかったので、一過性で消えていってしまったわけです。
また童謡は、しいていうならば、子どもたちが舞台の上できちんと歌うリート(独唱)です(合唱する場合もありますが)。童謡歌手というものがあらわれて、子どもたちはそれを聴いているという現在でいうリートのコンサートのような形式を取っています。それに対してお伽歌劇のほうは、良くいえばオペラですが、実際にはオペレッタかもっと下の学芸会のようなもので、音楽のほかにしぐさがあったり、純音楽的でない要素が山ほどあるわけで、その分、「不純」で価値が低い。 (現在でもコンサートホールできちんとやるもののほうが、オペラやオペレッタのように見て楽しめるものよりも評価されるのとかなり通じるものがあるんですね。)童謡は、芸術というものに価値をおくかぎり高く評価されるわけですが、お伽歌劇のほうは「楽しめれば良い」というものであるから、そのまま終わってしまったわけですね。
だいたい昭和のはじめには、だんだん下火になっていきます。
歌詞は、ずっと「ドレミファ」ですが、聴こえにくかった最後は次のように歌っています。「コニャックウォッカにペパミント プラトにリキュールアブサント ボルボにセリーにウイスキー エーリにカフェインチョコレート」これらが当時の音楽カフェであつかったものですね。カフェといっても、アルコールがでるものも含めて大正4年には「カフェー」と呼んでいたわけです。カフェー文化というのが海外・欧米から輸入されてきてわけですが、その中には、現在言うところの「バー」に近く、現在のようにコーヒーを飲むだけのところとは違うわけです。
「わたしの好きな若様は」のところが長調で、 「わたしの嫌いな若様は」のところで短調に転調しています。
このメロディーはヴェルディ Verdi の「椿姫」そのものですね。
道頓堀・神戸・名古屋・大阪と巡業しているそうです。
[4.1.2. 享楽じみたショウ]
岸田辰彌が「モン・パリ」をつくる発想の元になったのは、フランスのミュージックホール・キャバレー:フォーリー=ベルジェール・カジノ=ド=パリという2大ホールです。それを見て、そこでのショウをなんとか宝塚風にしたいと岸田は思ったわけです。フォーリー=ベルジェールというのがどういうところかというのを、昭和4年の 『夜のロンドン・パリ・ニューヨーク』という本の花柳界という欄から引用します。
「コンサートの筆頭は、リヒテル街のフォリバゼアである。開演は、8時半だが、予約申し込みしていなければ、早く行かないと席がない。定食もできるが高いから、一品料理または適当の飲料を注文しながら、数十人の天女のごとき美しい婦人の舞踊を見、あるいは血を沸かすような音楽を聴くが良かろう。元来フォリは、気違い・狂喜じみたことを意味し、また、バゼアは、情婦を意味するのだ。したがって、ここフォリバゼアの名は、よくこの音楽場の気分を表す文字であろうと思う。また、クリシー街のカジノドパリも、フォリバゼアと同種の享楽場であるが、いろいろな意味からして、前者より一層の狂態を演じている。」さきほど「ぬいた」という話をしましたが、こうした享楽の場が、宝塚の場に持ち込まれる際に、狂態じみたところはカットいたしまして、ショウのおもしろいところだけを、子どもにも見せられるかたちで拾ってくるわけです。
[4.2.2. 階段式フィナーレの初め]
カジノ=ド=パリのショウの場面でのフィナーレは(小規模ながら)階段が使われた最初で、これで成功をおさめたおかげで現在までつづいているという重要な場面です。
「みはるかす メソポタミヤの 砂の地よこういう風にして、砂漠を見たことのない人が、宝塚によってメソポタミヤの月を思い出すことができたわけです。
流るる月の 光は青き」
[4.3.2. 手が届くエキゾチズム]
大正時代のエキゾチズムでは、海外の自分には関係のない世界の話だった。ところが、「モン・パリ」では観客の身近な存在である(でぶっちょで、ああいう顔の人でとみんなが知っている)岸田が旅を話して聞かせるてくれます。エキゾチズムの対象である外国が、自分が本当に体験しうるようなレベルに近づいてきているんですね。昭和の始めにいろいろな交通機関が発達したこと、情報機関が発達したことで、エキゾチズムの意味が少しづつ変わってきている。そうした重要な時期に「モン・パリ」はつくられていると思うんです。
[4.4.2. 実際の音を聴く]
[4.4.4. メロディーのオリジナルは何か]
外国の曲をそのまま使って歌詞をまったく変えて使うというのは、(今もそうかもしれませんが)この頃はまったく自由にやっています。しかし、最初の別れの曲でもそうなのですが、たとえば、<麻雀の唄>などの中国風のメロディーがどこからきているのかわかりません。おそらく、むこうのその頃のオペレッタやショウの中国風のテーマであって、芝居や大衆演劇のどこかから楽譜を取ってきているでしょう。(知っている人があったら、ぜひとも聞きたいですね)。つい数年前までは、さっきかけたような曲をつくっていた人間が急にこんなハイカラな曲が作れるわけはないので宝塚で作曲されたとは思えません。しかし、その楽譜の入手経路などは、まったくわかりません。こうした作者不詳の曲の出典がわかるようになれば、当時の民間レベルでの国際交流というのがわかると思います。
[4.5.2. レビューの一般化・安易化]
場面を構成する必要はあるけれども、物語=ドラマはいらない。ということで、こうした傾向は、どんどん安易な方向にいくわけです。「モン・パリ」「パリゼット」(白井鐵蔵の成功作)以降、日本中にレビューというものがあらわれて、ずいぶんいかがわしいものもあったわけですが、宝塚でやったこと(革命的であったと思うのですが)それを安易に使っていくと、どんどん下のほうにいってしまう、これは大衆文化の特徴ですね。
「モン・パリ」によってレビューという言葉は市民権をえます。これの成功以降急に、ずいぶんすたれていた浅草オペラが浅草レビューとして、昭和4年ぐらいから復活しますし、それをうけて、新宿ムーランルージュというレビューですとか、大阪でも道頓堀のほうにできるし、松竹のほうでもレビューという名前を冠して、独自のスペクタクルを繰り広げるわけです。昭和の初期の大衆文化を考える上で、レビューというのは忘れられないし、レビューの原点にある「モン・パリ」というのを検討していくことは大事だと思うのです。
このページは、細川周平「初期宝塚歌劇の文化史−お伽歌劇からレビューまで−」(1991)の講演部分でした。
Early Takarazuka [speech]
written by MAKITA Van at 5. Fev. 1996
original at http://web.kyoto-inet.or.jp/people/vmakita/ezuka-speech.html